長谷川×山岡編

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 ノーズギアに車輪止めが入る。それを確認してエンジンを停止し、ベルト着用サインをオフに切り替えた。間もなく可動式のボーディングブリッジが乗降用のドアに接続され、機体左側より乗客が飛行機を降りてゆく。 「お疲れ様です。何か問題はありましたか?」  担当の整備士がにこやかに話しかけてくるのを、長谷川もまた笑顔で応じた。 「問題ないよ。副操縦士が優秀でね。安心してフライトに望めた」  長崎発、羽田着の最終便。一緒に飛んで戻って来た副操縦士が、嬉しそうに白い歯を覗かせる。これまで何度か一緒に飛んだことのあるクルーで、来年機長への昇格試験を受ける男だ。  北京から日本へ戻って国内を飛び、ようやく明日から休みに入る。大きな緊張感から解放される一瞬だった。  整備日誌にペンを走らせながら、北京での一夜は散々だったなと、こっそりため息をついた。山岡と電話を切った後、長谷川は荷物を纏めて元々副操縦士が泊まる予定だった部屋に入った。当人はそのまま長谷川のベッドで熟睡。霊感など皆無の長谷川は、特に何が起こるわけでもなくシャワーを浴びて床に就いた。  翌朝、例の副操縦士が真っ青な顔で平謝りしてきたが、もう二度と勤務中はアルコールを一滴も摂取するなと少し強めに注意した。自分たちは単に飛行機を飛ばしているのではない。乗客の命がかかっている。  急な体調不良は人間なのだから仕方ないとしても、そうなる原因は極力避けられる。それを全うしないのはただの怠慢であり、クルーとして失格だ。副操縦士は涙目で返事をしていたけれど、今回のことは彼にとっていい勉強になっただろう。今後改善していけばそれでいい。計器類のスイッチを全て切り、駐機時のチェックリストを確認する。 「オールクリア。あとはお願いします」  機体を整備士に預け、長谷川と副操縦士は鞄を手に飛行機を降りた。乗客と同じようにブリッジを抜けて、シックスセンスが近いという話をしながら運航部へ戻る。シックスマンスとはパイロットが定期的に受けているライセンス更新のための身体検査のことだ。  パイロットは、アスリート並の健康管理が必須となってくる。突き指しただけでフライトから外され、ちょっとした腹痛でも待機しているクルーと入れ替えになる。  肥満が気になれば基準値内におさめるべく、アスリート顔負けの運動量をこなすことでも有名だ。特に酒好きともなればGTPを考慮して禁酒に努め、職業病とも呼ばれる胃潰瘍や痔の治療も率先して行われる。特に視力に至ってはかなりの頻度で精密に検査されため、パイロットの間ではどこのクリニックが有能かなどの情報交換が行われていた。視力は近距離、中距離、遠距離の他に視野検査や網膜の状態もチェックされるからだ。 「尚の様子が、おかしい?」  一通りの業務を終えて、急ぎ帰路につこうかという頃。長谷川は山岡に電話をかけたが電話に出ない。ちゃんと実家に身を寄せているのかが心配になって滝川に連絡を入れた長谷川は、思わぬ返答に眉根を寄せた。 『それが、昨日からボーとなさっておいでで……。食欲もあまりないんです』 「料理はお前が作ってるんだろう?」 『ええ。親父が慌てて医者を呼んだんですけど、体に異常はないと』 「尚大が店に来たと言っていたからな。可哀想に、怯えているんだろう」 『はい。余程お辛いのか、若の部屋に飾ってあった写真立てを見て、ため息ばかり』 「あれには、律子さんの写真もあったからな……。昔を思い出しているのかもしれない」  自然と重い息が長谷川から零れた。尚大のことが恐ろしいに違いない。おそらく夜も眠れていないはず。  早く帰らねば。電話を切って足早に駐車場に向かい、自宅ではなく実家へ向かった。普段、ほとんど立ち寄ることのない長谷川の家。祖父と叔父がいざこざを起こした時に顔を出す程度だ。しかし今回ばかりは助かった。山岡を一人にしておくのが怖かった。彼はとても繊細だ。そのくせ他人に迷惑をかけたくない一心で強がる。その危うさが愛おしく、心配で、悩みの種でもあった。 車を門の正面に停め、住み込みの連中に鍵を預けて中に入る。 「若、お帰りなさいませ」 「尚は?」 「先ほど風呂から上がられて、若のお部屋に」  そうか、と頷いて部屋へと向かった。途中、祖父と鉢合わせになり足を止める。 「戻ったか」 「尚が世話になった」 「構わん。そんなことより、隼人。……尚大が消えた。若いモンに動向を探らせていたんだが、途中で姿を暗ませたそうだ。家にも戻ってはおらん。元々、マンションに一人暮らしだったらしい。実家にもマンションにも戻っていないとなると……」 「厄介だな。それを尚には?」 「話すわけがなかろう。益々怯えさせる。念のため、ソルーシュとかいったか。あちらの三人にも護衛目的で若い衆に見張らせておったんだが……。またドエライもんに目ェ付けられて。柚野ンとこの坊主はまだしも、美津根という別嬪さんは」 「じぃさん。誰にだって譲れないものはある」  長谷川といい、柚野といい、一筋縄ではいかないものを抱えている。その中でも美津根に求愛している男は、長谷川や柚野とは比べ物にならない。 「……確かに。儂が口出すことでもないな」 「それより尚大だ。捜索中なんだな?」 「もちろんだ。何かあれば、おって報せよう。尚道くんは、どうする。マンションに帰るのか?」 「そのことなんだが、俺がいない時、尚をこの家で預かってもらえないか?」 「もちろんだ。儂も心配だ。律子お嬢さんの御遺言もある。快く引き受けよう」  助かった。あとは尚道の了解を得るだけだ。彼のことだから遠慮するだろうが、そこはなんとか言いくるめてみせる。祖父に礼を言って自室へ向かい、ドアをノックしようと扉の前に立った。 ◆ ◆ ◆ 「はぁぁぁ……」  そろそろ長谷川が帰ってくる。別にこれまでも彼が仕事に出て二~三日留守にすることはあった。特に何も珍しいことはなく、山岡はソワソワしている自分に戸惑う。前回と今回、何が違うのかよく分からない。胃の調子は悪くないのに食欲がない。ずっと胸の辺りがモヤモヤしていて、気持ちが下向きだ。  更に昨日から、例の知らない番号から着信が入る。しかも頻度が段々と増えてきて、志間のアドバイスを受けて着信拒否をした。以降、一度も電話は鳴っていない。  だからこそ、その分他のことを考えてしまっていた。ハッキリ言ってしまえば長谷川のことだ。どういうわけなのか、頭の中から離れてくれない。何をしていても、昨日の電話の内容が頭の中でグルグルしてしまう。  あの後、一緒に眠ったのだろうか。今日もペアを組んでいたのか。自分には関係のないことばかり浮かんでは消えていく。正直、意味が分からなかった。こんなことは生まれてこの方、初めてだ。 「はぁ……」  何度目か知れないため息。きっと、やることがないから余計なことを考える。明日になればまた元の生活に戻る。こんな意味不明なことも今日で終わりだ。よし、と頬を叩いて水を貰いにベッドを離れた。  ―RRRRRRRRR。  着信音に呼び止められる。ソルーシュのメンバーからだろうか。それとも長谷川からか。はたまた、また知らない番号からなのか。例の知らない番号は着信を拒否している。きっとソルーシュのメンバーからだ。そう思って携帯電話を開いた。 「っ、……ぁ」  まただ。また、別の知らない番号。血の気が引く。どんどん。どんどん。あの男が近づいている気がして、迫っている気がして、恐怖心を覚えた。必死に逃げているのに、どこまででも追いかけてくる感覚。電話の相手が彼なのかは分からないが、それ以外にかけてくる人間が思い当たらない。  公共機関や病院などの登録番号は、全てソルーシュの代表番号を記入してある。美津根の指示だ。だからこそ、この番号を知る人間は限られたごく一部。事情を知っているソルーシュのメンバーが、無断で他人に番号を漏らすわけがない。長谷川の線もあやしい。彼が山岡のことを心配してくれているのは、事実だと思うから。あれが演技だとすれば相当なものだ。他に山岡の番号を知る人間はいない。 (……まさか、そんなわけない)  かつて、山岡がソルーシュで働く前。山岡の信頼を踏みにじった人物がいた。山岡の純朴な優しさを嘲笑い、死の一歩手前まで追い詰めた女だ。行き倒れるきっかけを作った人物でもある。祖母と同じ名前で年齢も近かった。だからこそ無垢な山岡は無条件で彼女を信じてしまった。  彼女と弟が繋がっているとは考えにくい。接点など何もないはずだ。山岡に対して彼女が行ったことは犯罪である。山岡が訴えれば彼女は警察に追われる。それをしなかったのは、山岡家に所在がバレるのを恐れたからだ。探すわけはないと分かっていても、逃げたい一心で足が警察へ向かなかった。  騙されたことは辛いが、いい勉強になったと思っている。あのことがなければ山岡はソルーシュの三人とは出会っていない。あの三人に出会えたことこそが山岡の幸い。彼女とのことは過去のことだと、水に流すことに決めた。  この番号を、あの女は知っている。だが覚えているわけがない。夢の新天地だと信じていたあの店はもうなく、彼女は姿を暗ませた。プツリ、電話が切れる。絶対に知らない番号の着信には出るなと言われている山岡は胸を撫で下ろして、念のため美津根たちに連絡しようとメールを開いた。 「……?」  聞き慣れない音がして、液晶画面を見る。留守番電話サービスだ。伝言が一件、入っていた。  迷った。どうすべきか、本当に迷った。美津根たちに相談しようにも店が忙しい時間帯だ。電話はできない。長谷川もまだ戻らない。伝言を聞くぐらいなら平気だろう。そう考え、震える指先でボタンを押した。そっと耳を宛がい、不安の中伝言を再生した。 「ああああああぁぁぁッッ」  悲鳴。否、絶叫が聞こえた。扉の向こう、山岡の声だ。長谷川は扉を開いて室内に飛び込み、両手で頭を抱えている山岡に手を伸ばした。錯乱状態にある彼は激しく抵抗し、長谷川は一体何があったのかと周囲を見回す。足元に携帯電話を見つけ、忌々しげに舌を打った。  過呼吸になりかけている山岡を強引に抱き寄せ、彼の名を呼ぶ。背中を摩りながら、全力で抵抗する山岡を落ち着かせることに専念した。 「尚、僕だ。長谷川だ。大丈夫、怖くない。大丈夫だから」  返事はない。その余裕がないのだ。呼吸が浅く激しい。目の焦点も合わない。本格的に過呼吸に入ったのか、指先が硬直し不自然に折り曲がっていた。過呼吸は自然とおさまるものだが、その間の辛そうな山岡は見ていられない。パニック状態も併合し、錯乱している。  長谷川は山岡をベッドに寝かせ、両手で彼の顔を包み込んだ。真上から彼を覗き込み、声をかけ続ける。 「尚、僕を見るんだ。尚……っ」  根気強く呼びかけると、やっと目が合った。目の前にいるのが長谷川だと認識したようで、少しずつ錯乱状態は解けていく。しかし呼吸は未だに整わず、かなり辛そうだった。時間が解決するのは理解していても、黙って見てはいられない。 「大丈夫。怖くない。大丈夫だよ、尚」  落ち着いて。そう願いを込めて額に唇を寄せる。すると、不思議なことに指先の硬直が解けて呼吸が整い始めた。人の体温がいいのだろうか。よく分からないまま、今度は頬に唇を落とす。小さく身じろいで、震える手が覆いかぶさっている長谷川の服を掴んだ。それを視界の端で確認した瞬間、長谷川の中で安易にタガが外れた。何をやっているのだと、辛辣なもう一人の自分が叱責している。しかし、止められなかった。触れ合う鼻先。まだ若干速い、山岡の呼吸。 「……尚」  人の弱みに付け込んで、最低なことをしている。正気に戻った瞬間、殴られるかもしれない。嫌われるかも。欲に負ければロクなことがない。分かっているはずなのに、いい年をして抗えなかった。 「は、せ……がわ、……さ、っ……ン」  名を呼ばれた。こちらの服を掴んでいる指が微かに震える。甘く啄む、柔らかな唇。  怖がらせないように。怯えさせないように。細心の注意を払いながら、優しく啄む。 「ン……、ぅ」  荒々しさの削げた吐息が山岡から漏れ、角度を変えてもう一度口づけた。思考が未だ追い付いていないようで、されるがままだ。大人しい。髪を撫で、頬を撫で、濡れた唇を堪能する。まだ歯列を割るには尚早と判断し、唇だけを甘く啄み続けた。彼が抵抗しないのをいいことに、顔や耳、首筋にもキスをする。  ありがたい。嫌悪感はなさそうだ。生理的なものはどうしようもない。それを見極めている最中であったが、これは重畳。助かった。 「尚、愛してるよ」 「長谷、川……さ、っ……ンン」  拒絶の台詞は聞きたくなくて、もう一度唇を塞いだ。やはり抵抗らしい抵抗はない。何をされているのかは理解できるだろうに、それだけ錯乱状態が酷かったか。  しかしあまりにもしつこいと、逆に嫌がられてしまう。せっかく抵抗されていないのならもっと深いところまで味わいたかったが、段階は大切だ。特に山岡のように恋愛自体が分かっていない子に、性急さは厳禁である。急いては事をし損ずる。音を立てて唇を離し、黒い瞳を見つめた。柔らかく微笑めば、色々と理解したようで耳まで真っ赤になってしまった。青ざめていないことに安堵して、笑みを深くする。 「キス、しちゃったね」 「っ」  相当恥ずかしかったらしく、真っ赤になったまま顔をプイっと背けてしまう。それがまた可愛くて、長谷川は破顔した。 「可愛いなぁ」 「……っ。か、可愛くないっ」 「いいや、可愛い。物凄く可愛い」 「もう! からかわないで!」  良かった。ちゃんと会話もできている。しかも敬語ではない。羞恥心が恐怖心を勝ったか。  懲りずに頬へ唇を寄せれば、益々山岡は赤面して狼狽え始めた。なんて可愛いのだろう。 「……、……にも、したの」 「え?」 「ナンデモナイ」  どうしたのか、今度は不貞腐れてしまった。不機嫌そうな横顔に目を瞬き、今の言葉を反芻する。聞き間違いでなければ、彼は言った。あの副操縦士にも、したのかと。 (コーパイ……?)  一体誰のことを言っているのだろうと考えて、すぐに昨晩のことに思い当たる。 (……う、そ)  まさか、電話口でのことを気にしてくれていたのか。山岡が。この表情と今の台詞。嫉妬しましたと言わんばかりで、長谷川はニヤけそうになる顔を必死に引き締めた。ここで間違えれば、山岡が頑なになってしまうことは想像に容易い。それだけは避けるべき事態だ。繊細で、頑固で、可愛い人。長谷川の人生に彩りをくれた人。あの日のことを無理に思い出さなくていい。その代わり、自分が鮮明に覚えている。 「しないよ。彼はあの後、部屋に放置して出たからね。僕は霊が出たとかいう彼の部屋で寝たんだ。特に何も起こらなかったよ。今朝、昨晩のことを叱責した後は会ってない」 「……叱責?」 「僕らは乗客の命を預かって飛行している。いくらお菓子だからといって、安易にアルコールを口にするものじゃない。何よりフライトは一人で行うことではないから、下手なものを口にして腹を壊せば周囲にも迷惑がかかる。僕は機長として、それを彼にしっかりと教えないといけない」  言えば納得したのか、山岡が頷いた。長谷川の回答が満足いくものだったようで、表情も柔らかい。なんだか嬉しそうだ。その顔が最高に可愛くて、我慢できずに唇へキスをした。 「ちょ、っと!」 「だって、あんまり可愛いから」 「可愛くないですっ。百歩譲って可愛いと思っても、ちゅーは駄目ですっ」 「ちゅ、ぅ」 「……な、なんですか」  どうしよう。可愛すぎる。本当に成人しているのだろうか。この子。手で顔を覆って身悶える長谷川に、山岡が胡乱な目付きで見上げてきた。だが顔が上手く作れない。ゴホンと咳払いをして体を起こし、一先ずは退く。負けだ。勝てる気がしない。また敬語に戻っているが、その辺も追々でいい。 「尚。あれを確認してもいいかな」 「え? あ……、はい。お願いします……」  許可を得てベッドを下り、携帯電話を手に取った。伝言をもう一度再生させる。機械音の後、若い男の声が聞こえてきた。流れる音声に目を眇る。 『おーい、いい加減電話に出ろよ。マジでふざけんなよ? いつからそんなに偉くなったんだ、お前。なぁ、オニイチャン……おいって、このクソ野郎がッッ!』
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