長谷川×山岡編

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 ゆっくりと携帯電話を折りたたみ、長谷川が山岡に返してくれる。あの声が残っているだけで恐ろしい。身震いしてしまいそうだ。今すぐに消したいが、今後のために証拠は一つでも多い方がいいだろう。訴える気などないけれど、何かあった時のためだ。  威圧的なところは何も変わっていない、あの男の声。むしろ刺々しい部分は増したような気がして、山岡はきつく眉根を寄せた。何故、今更山岡に会いたがるのか。ソルーシュを探し当て、わざわざ会いに来る理由が分からない。毎日あれだけ馬鹿にし、嘲笑い、罵っていた相手だ。顔を合わせれば、まるで挨拶のように消えろと言われていた。彼にしてみれば、願い通りになったはず。 「子供だな。幼稚な真似をするものだ。ああすれば、君が怯えて言うことをきくと思ってる。脅せば屈するとね。……尚。分かってると思うけど」 「……大丈夫です。俺も、そこまで馬鹿じゃありませんから」  電話をかけてきたのは、それ以外に手段がないからだ。ソルーシュには出勤していないし、住まいも移した。もし居場所が分かっていても、他人の家。迂闊に踏み込めば、警察沙汰だ。そういうところは知恵の働く男であったから、馬鹿な真似はしないはず。彼は世間体をひどく気にする。完璧な外面はいっそ見事であった。  品行方正な山岡家の次男。明るく闊達で、誰にでも優しく爽やか。誰もが彼と友人になりたがり、彼の傍には常に人がいた。勉強もできた。運動もできた。欠ける部分があるのだとすれば、おそらくそれは――人間性。  少なくとも、裏の顔を知る山岡はそう思っている。  天使の顔をした悪魔とは、あの男のことを指すのだと信じて疑わない。それほどに表の顔との落差が激しかった。おそらく両親ですら気付いていない。息子を最高の人間だと思い込んでいる。特に母親は、痛々しいほどに彼を溺愛していた。似ているのだとすれば、父親だろう。彼もまた世間体を気にするタイプで、尚大が生まれる前までは尚道と手を繋いで散歩に出向き仲睦まじい姿を演じていた。  本性を知るまでは、優しい人たちだと信じていた。疑わなかった。苦しいくらいに、大好きだった。 (……やめよう)  考えるだけ無駄だ。話し合えば分かり合えるなんて幻想だと思う。世の中には決して交わることのできない者も存在する。無理に交差しようとするから精神がすり減る。山岡はそれを嫌というほど思い知った。  頭が痛い。久しく忘れていた頭の重み。吐き気がしない分まだマシだが、気分は最悪だ。あの家のことを考えると頭痛がする。以前それを笑って曽田に話したら、カモミールティーを淹れてくれた。辛い時に笑う必要ないと言われ、妙に泣きたくなったのを覚えている。  辛ければ辛いほど、笑顔でいた。不吉な笑顔。そう呼ばれていた山岡の笑顔は、自己を守る最後の砦。長く気味が悪いと言われていたから、山岡はあまり笑顔が得意ではない。  ソルーシュに来て自然に笑えることも増えたが、すぐに我に返って真顔に戻る。ありがたいことに接客用の笑顔は、案外簡単に習得できた。けれど自然に出た笑顔はあまり長く続かない。不吉だと後ろ指さされていた記憶が根強く、すぐに強張ってしまうのだ。  携帯電話を手にボンヤリ考えていると、不意に体を後ろに引かれて再び長谷川の顔が真上にくる。流石に今度は体がすぐに動いて抵抗するが、長谷川の指が目元に触れてドキリとした。  「クマ、できてるね」 「……気のせいです」 「眠れなかったの?」 「めちゃくちゃ寝ました」  見え透いた嘘に沈黙が落ちる。気まずくて視線を余所へやれば、長谷川が隣で横に寝転んだ。 「そう。それなら良かった」  てっきり小言が飛んでくると思ったのに、受け入れられて困惑する。長谷川を見れば、肘枕をしてこちらを優しい顔で見つめていた。その顔に、山岡はどんな顔をしていいのか分からなくて。今、自分がどんな顔をしているのかも分からなくて。唇を引き結ぶ。そんな山岡の頭を大きな手のひらが優しく撫でた。 「それじゃ、僕は風呂に行ってくるね。おやすみ」  それ以上何をされるわけでもなく、長谷川は部屋を出て行く。彼の背中を見送って、山岡は誰もいなくなった室内で物言わぬ天井を見上げた。 「……変な人」  長谷川は、自分のことが好きだと言った。人生初の告白だった。他人に好意を示されたのは初めてだ。  色恋なんて無縁もいいところだった山岡にとって、青天の霹靂。誰かを好きになったこともなければ、気になったこともない。心にそんな余裕はなく、逃げ出すことばかり考えていた。  当時、その考えすら持たなかった山岡に、逃げる提案をしてくれたのは祖母だった。本当に感謝しかない。祖母がいなければ、逃げる選択肢は恐怖心により握り潰されていただろう。それにあのまま家にいたのなら、例え長谷川が現れたとしても彼のことを考える余裕などなかった。むしろ同性に言い寄られていることを知られたくなくて、拒絶していたはずだ。  正直、彼のことは何も覚えていない。というより、あの家でのことが上手く思い出せない。詳しく思い出そうとすると頭痛がして、全身に嫌なものが広がる。考えるどころではなくなり、酷い時は嘔吐して強制終了だ。  ただし、彼らに直結する感情はそれぞれ残っている。弟にこれだけ恐怖心を抱いているのは、だからだ。  ふと、であるならば長谷川に対する感情はなんなのだろうと、疑問が湧いた。彼は男だ。同じ男である。それなのに口説かれている。今時珍しいことではないし偏見はないが、当事者となると話は別――のはず。  口説かれた日は嫌悪感などより、意味が分からなくて驚くばかりだった。信じなかったこともある。けれど彼は足繁くソルーシュへ通い、山岡に愛を囁き、親身になって助けてくれる。  指が唇に触れた。触れた瞬間、唇の感触を思い出してグンっと血圧が上昇した。恐怖心に我を忘れていたが、よく考えてみたらとんでもないことをしたのではないだろうか。 (キスっ? 俺、き、キス……ッ)  体を起こし、今更ながらに慌てふためく。同性とキスしたのに嫌悪感がない。ビックリしただけだ。長谷川の匂いが凄く近くて、かかる吐息に心臓が跳ねた。頭を抱え、一体どうしてしまったのかと動揺が走る。顔が熱い。耳が熱い。首まで熱い。火照る頬を軽く叩き、落ち着け、落ち着け、と呪文のように繰り返した。  最悪過ぎる。これは一体どういうこと。何故、ない。あり得ない。信じられない。 (嫌悪感はどこっ?)  うぉぉぉぉぉっ、と頭を抱えたままベッドに伏して呻いた。心臓を鷲掴みにされたような恐怖心とは全く違う、痛いくらいの鼓動の速さ。幾ら鈍くても分かる。これは、羞恥心。恐怖心とは全然違う。  長谷川は慣れているだろうが、自分は初体験。いきなりなんてことをしてくれたのか。 (……慣、れ)  無意識に口がわずかに尖る。眉間に皺が寄り、目が据わった。また胃の辺りがモヤモヤしてきて、羞恥心が引いてゆく。込み上げてきたのはまた別の感情。けれど、この感情はよく分からない。知らない。山岡は首を傾げた。不快だが怖くはないもの。考えても分からないので、理解することを諦めた。そのうち分かる日が来るかもしれない。  色んな感情に塗り替えられて恐怖心がすっかり消えている。眠くはないが、寝てしまおうと準備をして横になった。ここは長谷川の部屋だが、戻ってくることはないだろう。電気を消して目を閉じた。 (……なんか、お腹空いた)  食欲なんてなかったはずなのに、急に腹の虫がうるさい。キュルルル、キュルルル、胃が喚いている。  だとしても、どうしようもない。目を閉じ、布団を頭まで被って猫を数え始めた。羊はリアリティがないので、昔からよく猫たちを数えている。可愛いし和むので、羊よりも若干眠れた。  一匹。二匹。三匹。……十、二十、三十匹。ちっとも眠気なんてやって来ない。長谷川にも見抜かれていることだが、こっちに来てからほとんど眠れていなかった。クマができて当然だ。仮眠にも満たない時間しか寝ていないのだから。腹の虫より大きなため息が出る。水でも飲んでこようかと思い起きたのと同時、軽くノックがして扉が開いた。差し込む廊下の灯り。明るい色の瞳と目が合う。途端、まるで催促するかのように盛大な音を立てて腹が鳴った。 「ク……っ」 「笑わないでくださいっ」 「アハハハッ。ごめん、ごめん。そんなにお腹減ったなら、何か作ってあげようか。何か食べたいものはある?」  タオルで髪を拭きながら入ってきた長谷川の申し出に、必要ないと首を横に振る。けれど腹は非常に正直で、グルグル鳴いて催促してきた。長谷川の肩が小刻みに揺れている。恥ずかしい。穴があったら入りたい。 「朝ごはんを沢山食べるので大丈夫です。もう寝ます」 「眠れる?」 「余裕です。意地でも寝ます。ご心配には及びません」  再び布団を頭まですっぽりと被り、丸まった。完全にフテ寝だ。こうなれば何がなんでも寝てやると歯噛みして目を閉じる。そんな山岡の眉間には、深い皺。 「なーお、お茶漬けくらいなら作れるから」 「いりません」 「そんなに潜ってると苦しいでしょ? 出ておいで」 「平気です」  本当は息苦しかったが、意固地が邪魔をして顔を出せない。自分はこんな性格だっただろうか。逆らわず。抵抗せず。ただ受け入れて生きてきた。こんな風に不貞腐れて反抗している自分が、少し信じられない。もしかすると、こんな態度を取っているのは長谷川が初めてかもしれない。 「酸欠になっちゃうよ」  布団を捲られる。実は結構息苦しかったので助かった。 「尚にご飯作りたいな」 「……」 「紅鮭が冷蔵庫に入ってるから、お茶漬け美味しいと思うんだ」 「しゃ、け?」 「京都から届いた美味しい漬物もあるのに」 「つけもの……」  幾度目か知れない腹の音に、とうとう山岡が音を上げた。ゆっくりと起き上がり、素直に頭を下げる。 「……お茶漬け、食べたいです」  下げた頭を撫でられて、気まずさがどこかへ逃げた。ベッドから下り、キッチンへ向かう長谷川の背中を追う。ここで待てと言われて、誰もいないダイニングテーブルに腰掛けた。  インスタントではなく、紅鮭を焼いてくれている。香ばしい匂いに胃が痛いくらいで、出来上がりを前にした時は目が輝いた。 「どうぞ、召し上がれ」  手を合わせて箸を取り、シャケと海苔の香ばしい匂いを嗅ぐ。もうそれだけで鼻腔が狂喜乱舞だ。茶碗を手に熱いお茶漬けを口に運び、あまりの美味さに思わず長谷川を見た。 「美味しい?」 「すっっごく。ありがとうございます」  出してくれた漬物も美味い。確かこれは夕飯にも出たはずだが、あの時はあまり味がしなかった。何が違うのか、これはとても美味しい。このお茶漬けも、なんだか久しぶりにちゃんと食事をしている気がして、体がほっこりとした。自然と表情が緩む。 「その野沢菜でお茶漬けできるけど、食べる?」 「いいんですか?」  もう半分以上食べてしまって物足りなさを感じていたところに、お代わりを申し出られて箸が止まった。長谷川は笑顔で頷き、食べ終えたお茶碗を受け取って二杯目を作ってくれる。 「今度はお茶じゃなくて、あご出汁。こっちも美味しいよ」 「いい香り……。ありがとうございます」  二杯目も嬉しそうに食べ進める山岡。寝る前にこんなに食べていいのかとも思ったが、あのままではきっと、空腹で眠れなかった。眠れないことには慣れているけれど、長谷川と暮らし始めて睡眠もちゃんと取れるようになっていたので体の疲労感が違う。  二杯目も大満足で食べ終え、長谷川に礼を言った。ほうじ茶を淹れて飲んでいた長谷川も満足そうだ。彼の分の食器も山岡が洗い、そのまま二人で歯を磨きに行って部屋へと戻った。 「あの……。何故、ここに?」 「だって僕の部屋だから、ここ」  それはそうだが、てっきり別の部屋で寝るものだと思っていた。長谷川の家でも一緒に寝ていたが、なんだか妙に緊張する。しかもすぐに灯りが消されて慌てた。 「さ、寝よう」  ベッドに引きずり込まれて問答無用で寝かされる。しかも抱き枕よろしく、ピッタリとくっついてこられた。 「おやすみ、尚」 「ちょ、少し離れ」 「いーやーだ」  子供みたいな拒否に力が抜ける。抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなってきて、もう面倒なので好きにさせておくことにした。長谷川がくっつきたがるのは今に始まったことではない。  欠伸を噛み殺して目を閉じる。腹が満たされたお陰か、眠くなってきた。髪に触れる長谷川の吐息と、腕の重み。最近慣れてきたそれに、眠気が益々加速する。いつの間にか夢の中。目を閉じて数分のこと。まるで待ち望んでいたかのような温もりに、山岡は深い眠りの底へと落ちていった。それは呆気ないほど簡単で、安らかな寝顔であった。
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