長谷川×山岡編

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 一方、その頃。閉店直後のソルーシュでは、ある問題が起こっていた。 「またかぁ……」  店の前の大量のゴミ。志間がため息をつきながら散乱するゴミの写真を撮った。曽田が手早くゴミを片付けてくれるが、ここのところこういうことが続いている。 「馨、今日は裏もやられてる」  美津根が箒とゴミ袋を手に現れ、三人はゴミを前に嘆息した。犯人は分かっていないが、心当たりはあった。  流れる沈黙。目の前には集めたゴミ。しかもご丁寧に生ゴミだ。臭いもきつい。 「どーすんだ、店長。分かってるとは思うけど、山岡には言えないぞ」  ゴミを睨んでいた志間が、仕方なさそうに息を吐いた。大きく伸びをして、美しい月を見上げる。ニヤリ、不敵な笑みを浮かべて二人を見た。その笑顔に、曽田と美津根が顔を見合わせる。 「警察に行く」 「おい、いいのか? 山岡が知れば」 「曽田ちゃん、この件に山岡ちゃんは関係ない。そうだろ?」  一瞬、曽田が言い淀んだ。予想が当たっていれば、犯人は山岡絡みだ。直接手を出したかは知らないけれど、十中八九、彼の仕業だろう。それなのに、この飄々とした志間の表情(カオ)。曽田はようやく合点がいった様子で、小さく頷いた。隣の美津根も苦笑している。 「うちの店の話だ。うちが迷惑かけられてるんだ。山岡ちゃんは休職中なわけで、これとは無関係だよ」 「楽しそうだな、馨」  美津根に言われ、志間が大きく首肯しながら笑う。 「こういうの、燃える~」 「分かってると思うが、あまり大事にはするなよ」 「大丈夫だって。でも、やっぱ教えてやるのも大人の役目だとも思うわけよ。どんたけ頭の働くガキかは知らねぇけど、やっちゃいけないことはちゃーんと叩き込んでやらないと」  伊達に社会人やってるわけではない。学生時代とは違う世間の恐ろしさと冷たさ。それを、教えてあげることにしよう。 「長谷川さんには?」 「伝える。そっちはよろしく」  分かったと告げて、美津根は長谷川に連絡を入れるため店に入って行った。嫌がらせを受けるようになって、証拠の写真や動画、メモは欠かさず残している。志間はそれを持って警察に出向くつもりだった。 「だけどさ、なんていうか喧嘩売る相手間違えてるよな。俺らはまだいいとして、あの人は駄目だろ。あれは絶対に怒らせたら駄目なタイプだ」 「流石、曽田ちゃん。分かってるね~。あの人は、駄目だよ。……本当に、駄目。終わりだ」 ◆ ◆ ◆  長谷川のマンションへ戻って一週間。あれから長谷川と一緒にショップへ出向き、携帯電話の番号を変えた。機種もこの際スマートフォンにしたらどうかと言われたが、値段を見て無理だと判断してやめた。このままでも問題ない。必要性も感じない。  ソルーシュの三人にも番号を変えたことを伝えると、安心したと喜んでくれた。以来、電話もかかってこない。どうしても気になってソルーシュに異変はないかと尋ねたが、志間が笑って大丈夫だと言ってくれた。 「ソルーシュに行きたい?」 「はい。本当に店に迷惑をかけていないか、この目で確かめたくて」 「何をそんなに疑っているの?」 「……。店長、電話口で凄く元気なんです」 「志間くんはいつも元気だと思うけど」 「なんか、不自然で。曽田さんも美津根さんも、口を揃えたみたいに『店は大丈夫』って。それが妙に気になるんです。長谷川さんは、店長や美津根さんから何も聞いてませんか?」  珈琲を淹れてソファに戻って来た長谷川が、肩を竦めてマグカップを山岡に差し出す。 「さぁ……。ごめんね」 「そう、ですか……」  礼を言ってマグカップを受け取り、隣に腰掛ける長谷川へソルーシュに行きたいと改めて申し出た。  ここに匿って貰っている以上、無断で馬鹿な真似はできない。安易にソルーシュへ出向いてもしも見つかれば、彼ら全員の好意を無駄にしたことになる。 「ねぇ、尚。彼らとあの店が心配なのは分かる。君の大切な人たちと職場だ。でも、君がここで動いた方がこの一件が長引く可能性は高い。とにかく今は我慢だ。根競べだと思えばいい。君がここで隠れているからって、それをどうこういう三人じゃないだろう?」 「もちろんです。あんなにいい人たちはいません」  だからこそ、申し訳なかった。迷惑をかけていることが心苦しい。あんなに優しい人たちだからこそ、自分のせいで面倒なことに巻き込んでしまっていることへの罪悪感が大きかった。  山岡は迷惑をかけるくらいなら、かけられた方が気が楽な性質だ。人に頼ることを知らない世界で生きてきたため、他人に何かをしてもらうことに酷く抵抗が残る。器用貧乏ではあるものの、山岡はある程度のことを大抵そつなくこなしてきた。他人の手を借りずに済んできたことも、その一因だった。  やはり駄目かと視線を落とす。そんな山岡の頭を大きな手が撫でた。ミルクたっぷりのカフェオレから顔を上げ、長谷川を見る。 「分かったよ。じゃあ、少しだけ様子を見に行こう」 「本当ですかっ?」 「ただし車の中からだ。店内には僕一人で入る。君は車内から出ない。約束できる?」 「はい。約束できます。お願いします」  ジッとこちらを見下ろす長谷川を見つめ返し、マグカップを握る手に力が籠る。長谷川は小さく苦笑して、座ったばかりのソファから立ち上がった。 「それじゃ、出かける準備をしてくる。ちょっと待ってて」 「ありがとうございますっ、長谷川さん」 「あ、そうだ。条件がもう一つあるんだった」 「なんでしょうか?」  ドキドキしながら長谷川の言葉を待っていると、長谷川が笑顔で人差し指を立て、その条件を口にする。 「これから僕を下の名前で呼ぶこと」 「エッ?」 「呼んでみて」  長谷川の名前。隼人。ただ名前を呼ぶだけなのに、やけに焦ってしまって言葉が出てこない。視線が泳ぐ。顔も赤い。最近、長谷川のせいで赤面する回数が多いようなや思う。やたらとドキドキして困っていた。  下の名前で誰かを呼ぶのは、これで二人目。一人目は、ほとんど口にしたことはない。けれど、呼ぶたびに声が震えた。あれとは違う、緊張感。先日長谷川の実家で味わったものと同じ。恐怖心ではなく、羞恥心。  長谷川相手だと、なんでもないようなことに赤面してしまう。彼のマンションに居候し始めてから、こんなことばかりだ。それが苦痛ではないから、今のところ助かっていた。 (……隼人、さん)  試しに心の中で読んでみて、跳ねた鼓動にビックリした。 「れ、練習しますっ」 「練習?」 「今、ちょっと心の中で呼んでみたんですけど、なんか、凄く恥ずかしかったので……。練習させてください」  お願いします、と丁寧に頭を下げて頼めば、目の前で大きなため息が聞こえた。機嫌を損ねたかと不安になった山岡の視界に、すぐそこで悶絶している長谷川が目に入る。なにやら小声でブツブツ言っているようだが、早口で上手く聞き取れない。よく今まで無事だったなと聞こえた気もするけれど、どういう意味だろう。 「長谷川さん……、あの?」 「……いや、うん。大丈夫。本当に、君はよく無事で……」 「無事って、俺ですか? 確かに色々ありましたけど、運が良かったです」 「そうだね。僕も本当に運が良かった」  なんとなく話がかみ合っていない気もするのは、気のせいか。長谷川が準備をしてくるからとリビングを出たので確かめる術はない。山岡も出掛ける準備をしに、貸してもらっている部屋へ向かった。久しぶりにソルーシュのメンバーに逢える。怖くもあるが、喜びの方が強い。店は美津根が入っていると聞いた。本当に大丈夫なのだろうか。美津根の負担になっていないかが心配だった。  念のため、帽子を被ってみる。これだけでも少しは違うだろう。同じくリビングに戻って来た長谷川とともにマンションを出て、地下駐車場へ向かった。途中、エレベーター内でソルーシュ連絡した方がいいだろうと携帯電話を取り出したら、既に連絡済だと言われた。車に乗り込み、一路ソルーシュを目指す。 「尚、これもかけておく?」  そう言って長谷川から差し出されたのは、彼愛用のサングラス。それの予備だと言われて、山岡はありがたく借りることにした。なるべく顔は隠したい。 「ちょっと大きいと思うけど、そこまでじゃないから」 「はい、ありがとうございます。助かります」  早速、人生初のサングラスをかけて、窓の外を見てみる。普段とは違う落ち着いた色合いの世界。似合っているかどうかは別として、これはいい。  車はすぐにソルーシュ近くに到着した。直接店の駐車場へは駐車せず、一旦店の周りを一周する。 「いた?」 「いえ。大丈夫でした」  年齢的に、進んでいれば大学生。昼間だからいないとは限らない。一先ず外には張り付いていなかった。不審な車も停まってない。可愛らしいピンクの車が一台と、白いワゴン車が一台だ。あの男が乗るような車種は停まっていなかった。駐車場に停車し、まずは長谷川だけが車から降りる。 「いい? さっきも約束したけど、絶対に車から出ないこと」 「はい。大丈夫です」  車をロックして駐車場を離れ、長谷川が店内に入って行くのを見届けた。それなりに人通りのある道に沿っているため、行き来する人も多い。帽子を目深に被り、サングラスをかけたまま警戒する。  そこへ甲高い声が聞こえてきた。若い女性の声だ。窓の向こう、長谷川を堂々と指差してはしゃいでいる美女が三人。格好イイと連呼して興奮している彼女たちは、一言二言言葉を交わした後、長谷川を追って店内に入って行った。相変わらずモテる男だ。彼がモテるのは店にいた時から知っている。今更驚くことではない。  彼はいつも客の少ない時間帯を選んで来店していた。それでも時折女性のグループ客が多い時に現れた時は、店内が騒然となった。ソルーシュは店舗が空港に近いため、飛行機関連のファンも多く集まる。特に例の三人が来店するようになってからは情報が出回っているらしく、女性客が圧倒的に多くなった。  元々、曽田や美津根目当てで来店する女性客は多かった。だが曽田はシェフであるし、基本的に厨房からは出てこない。美津根もあの一件以降は、店自体に出ていなかった。 「いない、な……。良かった……」  ふぅ、と息を吐いてサングラスを取った。やはり少しサイズが大きくてサングラスがどうしてもズレる。鼻梁の高さの違いだろうか。あまり深く考えることはやめて、長谷川が出て来るのを待った。  カシャ。カシャ。そんな音が聞こえたのは、車のすぐそば。ソルーシュの巨大看板近くだ。そこに隠れてスマートフォンを構えている女が一人。年齢は十代後半から二十代前半。身長が高く百七十近い。かなり細身で、今時あまり見ない深い色の黒髪が特徴的だった。  山岡と目が合うと怯えたようにスマートフォンを隠し、慌てて踵を返す。  長谷川ならともかく、自分などを写真に収めるなど普通はあり得ない。なんだか嫌な予感がして、山岡は咄嗟にロックを解除し車から降りた。約束を破ってしまったことより嫌な予感の方が強く、今彼女を逃がせばとんでもないことになりそうで恐ろしかった。 「待って!」  駆け出し、彼女を追う。しかし彼女は速度を上げて、それを山岡は必死に追いかけた。ソルーシュから少し離れた場所で彼女に追いつき、前に回り込んで制止する。息を切らしながら、彼女と正面から対峙した。彼女は追いかけて来た山岡にひどく怯えた様子で、けれど手にはしっかりとスマートフォンを握っていた。  これは違う。長谷川や柚野を見て興奮したように写真を連射する女性陣とは。目が全然違う。だからこそ、本当に嫌な感じがした。折れそうなほどに細い体。痩せこけた頬。白いシャツにロングスカート。化粧はしておらず、猫背で陰鬱。後者は表情のせいだろう。  山岡は相手が女性であることを考慮して、少し距離を取ったまま慎重に声をかけた。 「今、俺の写真を撮りましたよね?」 「し、知りません」 「消してください」 「知りませんっ」 「じゃあ、データを見せてください」  女が言い淀む。泳ぐ視線に、山岡は女に向かって頭を下げた。 「お願いします」  違えばそれでいい。だがそうでなかった場合。本当に彼女が山岡の写真を撮っていた場合。一体それを何に使うのか。背筋がゾッとする。あの男の影がちらついて、血の気が引いた。 「ちがっ、知らない……。私、何もしてませんっ」 「山岡尚大」 「ッ」 「彼に頼まれたんですね?」  数年ぶりに口にした、その名前。名を呼んだだけで心拍数が上がる。指先が震える。  彼女の蒼白した顔に、山岡は確信を得た。間違いない。あの男はいつもそうだ。彼女のように、自分に惚れている女を言葉巧みに操っていいように使う。そして必要なくなったら、そうと気取らせぬよう笑顔で捨てるのが常。中にはあの男の悪質さに気付いて怒る狂う女性もいたが、大多数があの男の肩を持つため結局は何もできずに去って行く。泣き寝入りだ。あれは悪質にして最低のクズ。爽やかな笑顔で平然と嘘を吐き、他人を騙して楽しそうに操る悪魔。真っ当に相手をしてはならない。神経をすり減らすだけだ。 「俺は……貴女のような方を、沢山見てきました。あいつはまず、見た目が地味で大人しいタイプの子を選びます。奥手で純粋で、異性慣れしていない子です。そしてその子に人目の多い中で声をかけます。一度や二度ではなく、何度も。貴女を見つけては嬉しそうに、大振りの動作で近づく。まるで周囲に見せつけるような態度で。これは貴女に優越感を感じさせるため。人の多い中で声をかけていたのは、だからです」 「……っ」 「そのうちあいつは、周囲の人間より貴女を優先するようになります。ハッキリと口にはしないだけで、それらしい言葉を選んで貴女に気があるように振舞います」 「……やめて」 「貴女があいつを信頼し始めると次の段階です。あいつは、貴女をデートに誘ったはず。そこで悩みがあるような素振りを見せ、二回目のデートでその内容を打ち明けたのではありませんか? 次第に二人の会話は、悩み相談が主流に。しかもあいつは貴女にしか相談できない、こんなことを相談したのは貴女が初めて、と貴女を持ち上げる」 「やめて……っ」  その通りだったのだろう。大粒の涙を流して泣き出した彼女に、山岡はそっと歩み寄った。 「貴女は悪くない。悪いのは全部あいつだ。何を言われたかは知りませんが、俺はあいつには会いたくないんです。もう二度と……っ」  力強い山岡の断言に、女が弾かれたように顔を上げる。 「で、でも、尚大くんは謝りたいって。自分のせいで兄を傷つけたから、それを謝罪したいって。でも、兄はこの店に借金があって逃げられないんだって」 「嘘です。俺はあの店に助けてもらいました。あの店が大好きだから働いているんです」 「そんな……。じゃあなんのために、私あんなこと」 「あんなこと?」  ハッとしたように女が口を噤む。わなわなと震え出した彼女は、山岡を突き飛ばしてその場を逃げ出した。周囲の視線が突き刺さる中、彼女は人混みに消え、山岡は言い知れぬ怒りに唇を噛む。彼女への怒りではない。まだこんな愚かな真似をしているあの男に、激しい怒りがこみ上げた。  どれだけの人間を傷つければ気が済む。どれだけの感情を踏みにじれば気が済む。  ジャリ、と地面に立てた爪が痛いほどに軋んだ。 「立てる?」  背後から差し出された手。聞き慣れた声。怒りが急速に萎む。代わりに()でたのは、圧倒的な絶望。 「久しぶり。オニイチャン?」
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