あと一回だけ許された嘘

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あと一回だけ許された嘘

「はーい、みんな静かにぃぃ!」  休み時間の興奮冷めやらぬ生徒たちを前に、女教師が声を張る。やがて教室は、穏やかな沈黙に満ちた。 「今日はねぇ、ある偉人のお勉強をします」 「偉人って、どんな偉人?」 「この世から、嘘を消し去った偉人よ」 「なにそれ?」 「みんなは知らないと思うけど、昔は、嘘をつく――っていう人間の習慣があったの。あまり良くない習慣とされていて、嘘つきとか、真っ赤な嘘とか、嘘に関するたくさんの言葉もあったのよ」 「へぇ~」 「それじゃあ、一緒に学んで行きましょう!」  教卓の脇に立てられたモニタにスライドが投影され、そこにはある男――偉人の姿が映し出された。  得体の知れない悪夢に襲われ、俺は目を覚ました。あれは夢か? それとも現実か? 今にも命を奪われてしまいそうな感覚。それはあまりにもリアルだった。ただ、夢を俯瞰して見ている自分もいた。命を落とした先には、もはや夢から覚められないであろう、そんな恐怖がそこにはあった。  輪郭のはっきりしないそれ――悪魔とでも呼ぼうか――は、俺の命を奪おうとする傍ら、俺の耳元でそっと囁いた。 「貴様、生かして欲しいか?」  俺は生きたいと乞うた。赤児のように泣きじゃくりながら、悪魔の体にすがりつく。すると悪魔は俺に言った。 「その命が続く限り、貴様が一生でつける嘘の数は、あと一回だけだ。その定めを破った瞬間、お前の命は尽き果てる。分かったな?」  目覚めた俺の身体は、汗ですっかり冷え切っており、脳内では悪魔の言葉が、サイレンのように鳴り続けていた。 「あと一回、あと一回、あと……」  無意識に何度もそう呟いているのに気づく。  もしアレが夢じゃなかったら……? 「部長、すみません! 昨日から体調が――」  言いかけて俺は口をつぐんだ。  もしアレが本当だったら、こんなところで最後の嘘を使い果たしてしまうことになる。そうなれば、俺は二度と嘘がつけない。何が起こるか分かったもんじゃない世の中、嘘なしじゃ生き抜いてはゆけまい。ダメだ、ダメだ。嘘をついちゃダメだ。 「あっ、何でもないです。すみません、寝坊してしまいまして。急いで出社しますので――」  部長の大きな鼻息が受話口から漏れ、電話は一方的に切られた。  たかが遅刻の言い訳ごときで、最後の嘘を使い果たすわけにはいかない。いつか本当に嘘をつかねばならぬ時のために、大切な嘘は取っておかねば。  そんな意識に取り憑かれた俺は、普段なら悪気もなくついていた嘘も、(すんで)のところで()き止める術を身につけた。  得意先に納品した製品に破損があったときも、「申し訳ございません。全ての製品を正しく検品したのですが――」なんて嘘はつけない。  寂しいお財布事情。気さくに入れる店を探し歩く繁華街。カモを見つけたとばかり、執拗に声をかけてくる呼び込みに捕まったときにも、「あっ、今、帰り道なんで――」なんて嘘はつけない。  出世を自慢する旧友と飲んでいるときにも、「俺だって負けちゃいないぜ。先日のボーナスは、たまげたねぇ。自分で自分を褒めてあげたくなったよ。車でも買い替えようかねぇ」なんて見栄を張った嘘はつけない。  そしてついに、面倒なことが起きた。  妻に内緒で参加した合コン。その日は珍しく、参加した女性からの好意を集めることに成功し、意中の女と一夜を過ごすことができた。  そこまでは良かった。  後日、俺が家で風呂に入っているとき、たまたまその女からの着信があり、怪しく思った妻は電話に出た。いわゆる女の勘というやつだ。  風呂からあがった俺は、予期せぬ尋問を受けることに。 「あの女、どういうこと?」 「あっ、それは――」 「浮気したの?」 「あっ、いや……浮気なんて――」  そこまで言って俺は悩んだ。ここは嘘をつくべきか? いや、これから先の人生、まだまだ窮地は訪れるに違いない。目先のトラブルを回避するためだけに、咄嗟に嘘をつくのは悪手だ。しかし……。  結果的に俺はすべてを白状した。嘘をついてその場を取り繕うのではなく、あと一回だけ許された貴重な嘘を守った。そして俺は一人身になった。  嘘をつかなくていい世界。それは、徐々に清々しいものになっていった。所詮、その場をしのぐためだけの嘘。そんなもの、つこうがつくまいが、その後の人生、たいして変わりはない。人間は、選んだ道を正当化して生きていく生き物。なぁんだ、ありのまま生きればいいんだ。それを知った俺は、残りの人生を軽やかに生きた。まるでスキップでも踏むようにして。  そしてある日、俺はふと思い立った。 ――最後に残された嘘をついてみよう。  決意した俺は、すぐさま必要な道具を揃えに走った。 「そうして彼は、この世から嘘を消し去ることに成功したのよ」  まるで自分事のように誇らしげな表情を浮かべる教師。 「先生! 偉人はどうやって嘘を消し去ったの?」 「魔法でも使ったの?」 「教えて、先生!」  無邪気な質問が飛び交う。 「ここからは諸説あって、いかに嘘が悪いものかを人々に説いて回ったという説や、神に祈り続け、人々の心から嘘の根っこを消し去ったなんて説もあるの」 「ふ~ん。ともかくすごい人なんだね」  偉業の最後が具体的に語られなかったことに煮えきらない様子の生徒たち。浮かぬ顔が並ぶ教室に、休み時間の訪れを告げるチャイムが響いた。 「きゃあ!」  マンションの一室に、恐怖する女性の叫び声。女の上に馬乗りになった男の手が、その口を強引に塞いだ。 「貴様、生かして欲しいか?」  涙目の女性は、もがきながら頷く。  月明かりがベッドの上の二人を照らす。すぐそばに立てられた姿見。男はそこに映った己の姿を見て、ニヤリとほくそ笑んだ。  量販店で購入した黒いコスプレ衣装。店員からの(いぶか)しげな視線に耐えながら購入したメイク道具。それで施した化粧。どこからどう見ても、悪魔じゃないか。  さぁ、時は来た! 最後の嘘をついてやる! 「その命が続く限り、貴様が一生でつける嘘の数は、あと一回だけだ。その定めを破った瞬間、お前の命は尽き果てる。分かったな?」  言い終わると男はベッドから飛び降り、至福の表情のまま、軽い足取りで部屋をあとにした。  恐怖した女がやがて、悪魔となりそれをまた別の誰かにやってのけ、それに恐怖した別の誰かもまた悪魔に――それが伝播し、世界から嘘が消え去る未来が訪れることなど、想像すらすることもなく。ましてや、自身が偉人と呼ばれる日がくることなど――。
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