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 バルコニーでタバコをふかしながら、寥(りょう)は夜景を見つめていた。と、其処へ、 「ガラガラ。」 ガラス戸の開く音がした。 「寥さん、電話の相手が、こっちの話を訝ってるようで・・。」 「太いのか?。」 「ええ、恐らく。ザッと三千は行くかと。」 手下の言葉を聞いて、寥はタバコを壁面でもみ消すと、それを丁寧に小さな吸い殻入れに仕舞った。そして部屋に戻ると、 「代われ。」 そういって、掛け子から受話器を受け取りつつ、席に着いた。 「お待たせしました。先ほど部下の説明でご不審な点があると伺いましたので。ええ、ええ。それはもう、確かで御座います。此方の金融商品は、一般に出回っているものとはレートが違いまして。はい。」 手慣れた様子で、寥は全く淀みなく電話口の相手ににこやかに対応した。そして、十分ほどした頃、 「はい、では、係の者が伺いますので、宜しくお願い致します。この度は、どうも有り難う御座いました。」 丁寧にそういうと、寥はにこやかな顔で受話器を置いた。そして、急に真顔になると、 「お前とお前、すぐにスーツに着替えて、○○信用金庫に向かえ。マタが来る。」 そういって、机に置いてあるメモに必要最低限の事項のみを綴ると、手下の二人にそれを見せた。 「覚えたか?。」 「はい。」 「はい。」 二人が返事をすると、寥はすぐさま、そのメモを傍らに置いてあるシュレッダーにかけた。 「ガガガ。」 機械がメモを粉砕する音が響いている間に、二人は着替えを持って、部屋から出て行った。 「寥さん、やりましたね。」 先ほど、バルコニーに呼びに来た手下が、今回の手柄を讃えようと寥に近寄った。しかし、 「バカ。あいつらの報告が入って来て、初めて終了だ。油断するな。」 寥は顔色一つ変えず、他の掛け子達が対応している様子を、彼らの後ろに回りつつ、様子を窺った。そして、午後八時半になった頃、 「よし。一斉に受話器を置いて電源を切れ。ご苦労さん。」 寥は掛け子達に、今日の作業の終了を告げた。そして、三十分おきに二人ずつ出て行く手下に日当を渡しつつ、 「ご苦労だったな。また明日も頼むぞ。」 そういうと、労いの言葉をかけて、彼らを見送った。一斉に帰したのでは、この部屋に複数姪が集っているのを知らしめているようなものだった。別にオフィスの看板を掲げていないのに、大の大人が一日中、同じ部屋にいるのは、誰が見ても妙に感じる。その辺りの差配を、寥は抜かりなくこなした。やがて、寥と一番格上の手下だけになり、 「電源、全部チェックしろ。」 と、寥は彼に指示した。 「はい。全てOKです。」 手下はテキパキと確認をこなすと、戸口で待っている寥の所まで来た。 「今日の分だ。」 寥は一旦、部屋に戻って、彼に日当を渡した。 「すみません。」 礼を言う手下を先に行かせると、寥がポケットから何かを取りだして、暗がりの部屋に向けてスイッチらしきものを入れた。 「・・・・・。」 その装置から何も発せられてないのを確認すると、寥は小声で、 「よし。」 そう呟きながら、部屋を出て施錠した。 「あの、寥さん。この後、どうですか?。」 手下は飲みの誘いをした。しかし、寥は眉間に皺を寄せながら、 「馴れ合いはするな。そういっただろ。」 と、一段と厳しい顔つきになりながら、彼を先に帰した。そして、エレベーターで彼が下りるのを確認すると、寥は一人、階段を使って静かに下りていった。そして、マンションの玄関付近を見渡し、辺りに誰もいないのを確認すると、一人静かにコインパーキングまで向かった。支払いを済ませると、寥はピカピカに磨かれたスポーツカーに乗り込んで、エンジンを掛けた。 「ブロロロロン。」 低く腹に響くエグゾーストノイズを感じて、寥はようやく生気を取り戻すのだった。広い通りに出ると、アクセルを踏み込んで、寥は通りをぶっ飛ばした。当然、ミラーを確認しながら、警察車両らしき影が無いのを確認しつつ。そして、しばらく走ると、寥は別のマンション近くの駐車場に車を止めて、エレベーターで最上階まで上がっていった。そして、一室のドアを解錠すると、さっきポケットから出した機械を再び取り出して、部屋に向けてスイッチを押した。 「よし。」 そう頷くと、彼は部屋に入って施錠をし、明かりをつけた。目の前にはいくつもの段ボール箱が整然と積み上げられていた。そして、昨日とは異なる真新しい封がされていない箱を覗き込みながら、 「今日の上がりは・・、」 と、中に無造作に詰め込まれている札束を数え始めた。そんな作業を小一時間ほど続けていると、 「ピロロロロ。」 寥のケータイが突然鳴った。寥は上着のポケットからケータイを取り出し、名前を確認した。そして、 「はい、寥です。はい。はい。」 相手の言葉を二言三言聞いて、ケータイを切った。そして、札束の勘定をし終えると、其処から幾つかを取り出して、持って来た小さなボシェットに詰め込んだ。そして、部屋の明かりを落として静かに施錠すると、階段を使って降りていった。  普通の家庭だった。寥は物心ついたときから、自身の家族について、特に疑問を抱くことも無く、幼少期を過ごしていた。中学校に上がったときぐらいから、下町の比較的荒れた学校に行くことになったが、寥が悪い仲間と連むことは特になかった。勉強も出来た。クラブに入ってはいなかったが、スポーツもそれなりに出来た。しかし、高校進学を目前にしたとき、突然、不幸が訪れた。父が急死したのだった。当時、寥には病死と知らされていたが、随分後になって、父は自ら命を絶ったのだと、母親から知らされた。父は比較的大きな会社に勤めていて、生活レベルも決して悪くは無かった。しかし、家族の知らない間に、父は良からぬギャンブルにのめり込んでいた。連日、母親の元に借金の返済を求める連中が押しかけてきた。生活は一変し、これまで快く付き合っていた親戚連中も、まるで潮が引くかのように、寥の家族と疎遠になっていった。母親は何とか女手一つで寥を守るべく、必至で稼ぎながら父の遺した借金の返済に追われたが、それはすぐには減るような額では無かった。執拗に母親を脅しながら返済を迫る連中に、最初は寥も心を痛めてはいたが、 「自分が守らなければ・・。」 そう思い立ち、連中が帰って行くのを着けて行って、とある事務所らしき所に入って行くのを見届けると、恐る恐る、その事務所に入っていった。案の定、人相の宜しくない連中が対応に現れ、 「何だ、坊主?。此処はガキの来るよーな所じゃ無え。さっさと帰んな。」 と、追い出されそうになった。しかし、 「あ、あの、もうこれ以上、お母さんを苦しめないで下さい。」 と、寥は俯きながら、絞り出すような声で、そう伝えた。その声を聞いて、 「あ?、何だ、オメエ、彼処のガキが。」 と、事務所にいた男の一人が寥に気付いた。そして、 「あのな、オレ達も仕事なんだよ。オメエのオヤジがうちから金借りて、そのまま返せずに逝っちまったから、代わりにお母ちゃんに返してもらってる。ただ、それだけのことだ。当たり前だろ?。な?。」 男は、子供が裏社会の事情も知らずに首を突っ込もうとするのを諫めるつもりで、揶揄いがてら、遇おうとした。すると、寥は怯えながらも、震える手でポケットから何かを取りだした。小さなナイフだった。 「何だ、テメエ!。」 さっきまで揶揄っていた男の顔が激変した。そして、寥が持つナイフを取り上げようとしたその時、 「痛っ!。」 男が声を上げた。寥が男と揉み合って、相手の左腕を刺したのだった。すぐさま男の左腕から血が滴り落ちた。それを見た他の男達が、 「こら、ガキっ!。」 そういいながら、数人がかりで寥を抑え込むと、袋だたきにした。寥の顔は見るも無惨に紫色に腫れ上がり、やがて、唸り声を上げながら床に大の字になった。その騒ぎを奥で聞いていた男性が、 「おお、何事だ?。」 と、其処にいた男達に事情を聞いた。そして、 「おい、氷持って来い。」 男性はそう男達にいいつつ、床で仰向けに倒れている寥を抱きかかえながら、奥の部屋まで連れて行った。そして、静かにソファーに寝かせながら、男達が持って来た袋入りの氷を受け取ると、それをタオル越しに寥の顔にそっと当てた。 「うっ。」 寥は痛さで声を上げようとしたが、言葉にならなかった。そして、男性は怪我をした男を病院に連れて行くように指示すると、再び寥を介抱した。どれ程の時間が過ぎただろうか。寥はようやく、額と目の辺りがひんやりするのに気付いて、 「はっ。」 と、起き上がろうとした。すると、男性は寥の肩を優しく押さえながら、 「急に起きるな。まだそのまま寝てろ。大丈夫だ。」 と、優しい声で寥に語りかけた。そして、 「頭の所に氷の袋が乗せてある。自分で持てるか?。」 男性は優しく寥に伝えると、自身は脇の席へ移動した。そして、タバコケースから一本取り出そうとした時、 「ガチャッ。」 と戸の開く音がして、隣の部屋にいた男の一人が火を着けるべく、男性のところまでやって来た。しかし、男性は右手の平をかざして男を制止すると、静かに首を横に振って、退室を促した。男はそれを察して、 「失礼しました。」 と、小声でそういいながら、部屋を出て行った。 男性は、自分でタバコに火を着けると、煙を燻らせながら、 「なあ、坊主。此処がどーいう所が、解らねえ訳でもあるめえに。事情は聞いたが、ちょっと無茶だったなあ。だが、下のもんがやったことは詫びるよ。この通りだ。」 男性はそういうと、タバコを灰皿に置いて、机に両手を突いて寥に詫びた。それを見た寥は驚いて、氷の入った袋を退けながら起き上がって、 「いえ、悪いのはボクの方です。この度は、御免なさい。」 と、男性に負けないぐらいに頭を低くして自身の行為を詫びた。それを見た男性は、頭を上げながら、 「じゃあ、今回の件は、お相子ってことで、許してくれるか?。」 と、にこやかに寥に語りかけた。  寥は一瞬、唖然とした。どう見ても、自分がした行為の方が、相手を傷つけている分、罪が重いのに、妙な理屈で問題解決を図ろうとするこの男性が、とても奇異に見えた。しかし同時に、彼の微笑みが、何とも言えない懐かしさのようなものに満ちているのを感じると、 「あ、はい。もしそれでよかったら・・。」 寥の言葉に、男性はさらににこやかな表情になると、 「おお、そうか!。そいつは有り難うよ!。」 そういうと、大きくて立派な机の脇にある小さな冷蔵庫から、酒とジュースらしきものを取り出して、グラスを二つ抱えながら、 「じゃ、目出度く乾杯だ!。」 そういって、自分のグラスには酒を、そして、寥のグラスにはジュースを注いで、その場で乾杯した。寥はさっきの怪我で口の傷にジュースが沁みたが、それでも緊張と腫れ上がって熱の出た喉を冷やすのには、打って付けだった。そして何より、この不思議な男性とこんな風に居られることが、妙に心地良く感じた。そして、 「腫れが退いたらな、ワシがお前を送ってってやるよ。」 と、寥に告げた。流石に寥も遠慮したが、男性はいい出したら聞かないタチだった。そして、大きな外車を車庫から出すと、 「ほら、坊主、乗りな。」 そういって、寥を助手席に乗せて、そのまま発進した。その様子を、下の者達が見送りながら、深々と頭を下げていた。そして、男性は運転する道すがら、 「そうか、寥ってのか。ワシは徹(てつ)だ。よろしくな。」 そういって、互いに名乗り合った。そして、家に着くまでの間、男性は親身になって、寥の最近までの家庭事情について、黙って聞いてやったのだった。そして、寥が住むマンションに着くと、男性は玄関の所まで寥を送って行き、呼び鈴を押した。 「あ、はい・・。」 奥から寥の母親が姿を現すと、 「お母さん、この度は寥君のことで、此方の者が大変申し訳ないことを致しまして・・、」 と、玄関先で簡単に事情を説明しながら、深々と頭を下げた。寥の顔と、如何にも堅気では無さそうな男性を見て、母親は口をあんぐりと開けたまま、立ち尽くしてしまった。しかし、寥は母親の袖口を引っ張りつつ、 「お母さん、この人、凄く良くしてくれたんだ。」 と、自分の口で説明を始めた。しかし、自分が相手の男を怪我させてしまった話をしようとしたところで、 「あ、寥君。其処から先はもういいから。な。」 そういいつつ、男性は寥を見ながらウィンクをした。そして、男性は寥に先に部屋に上がるように促すと、母親と二人っきりになったのを見計らって、 「寥君から事情は伺いました。どうやら亡くなったご主人がウチからと、あと、他にも幾らか摘まんで・・、いや、借り入れをされてたようで。」 そう切り出した。母親は顔を曇らせて、申し訳なさそうな様子を見せた。すると、 「あの、その件なんですが、今回、寥君の治療費ということで、その分を弁済させてもらえませんか?。」 男性の言葉は、さらに母親に困惑の表情を作らせた。亡くなった主人が妙な連中に関わって自ら命を絶ったのは、運命かも知れないと、半ば自分に言い聞かせはしていた。しかし、こんな形で男性から恩を売られるようなことになれば、さらに子供にも妙な縁を結ばせてしまうのではないかと、そういう気持ちからだった。母親は、それだけは拒みたかったが、あまりの窮状と、そして何より、目の前にいる腹の底からにこやかな表情に、 「・・・すいません。もし、それでよろしければ。」 と、そう言葉を紡ぐより、他に無かった。 「そうですか。それは有り難う御座います。」 男性は母親の言葉を聞くと、礼を言いながら、深々と頭を下げて、その場を去った。感じのいい男性ではあった。しかし、母親は自身の置かれている状況が、そう易々と変わるものでは無いと、今目の前で起きたことを鵜呑みには出来ないでいた。それ以降も、男性は時折、寥の家を訪れては、お見舞いと称して果物や金銭を置いていった。母親は丁寧に其れ等を受け取りつつも、金銭にだけは決して手を付けずに、箪笥の奥にしまっておいた。  やがて寥は大学生になり、家計の負担を軽減すべく、 「母さん、ボク、バイトするから、もうお金の心配しなくてもいいよ。」 そう告げると、以後、学業とバイトに専念した。母親は、一時は苦労をかけたが、寥がこんな風に育ってくれたのを、何とも嬉しく感じていた。しかし、寥が家に入れる金額が、少し多いのではと、違和感を感じることが何回かあった。 「ねえ、寥。何のバイト、してるの?。」 心配した母親が寥に尋ねた。すると、 「ん?。何か、アドバイス的な仕事。ちょっと給料、いいんだ。」 と、にこやかに答えるだけで、それ以上はバイトについては何も語らなかった。実は、あの一件以降、寥の価値観は一変していたのだった。父の自死、去って行く大人達、容赦ない連中。そして何より、そんな苦しい中にあっても、手を差し伸べてくれる人物。寥の耳は、必然的に自身の存在を認めてくれる人間の言葉に傾けるようになっていた。  スポーツカーの所に戻った時、一人の男が寥に近づいて来た。 「よう。」 「今晩は。これ、頼まれてた分です。」 そういうと、寥は男にポシェットを手渡した。 「すまんな。で、今日の上がりは?。」 「ザッと千五百って所です。」 「そうか。ところで、ちょっと時間あるか?。」 「あ、はい。」 男性はスポーツカーの助手席に乗り込むと、寥とドライブに出かけた。そして、窓を少し開けると、タバコに火を着けて、 「ところでお前、抜けたいらしいな?。」 男は話を切り出した。寥は一切、そんな素振りを周囲に見せていなかっただけに、彼の言葉に驚いた。そして、此処から先の言葉は、どう選んだところで、自身の運命を決定付ける、そう感じた。そして、 「・・・そう、見えますか?。」 と、寥はたずねた。すると、男は煙を燻らせながら、 「いや。だがな、お前の働きっぷりが、そう語ってる。こんな稼ぎをするヤツらは、金以外、信じちゃいねえ。だからみんな、稼いだ尻から散財する。着る物、吐く物、腕時計、全てだ。車だってそうだ。しかし、お前はどうだ?。車こそ、それらしいスポーツカーだが、それ以外は質素そのもの。誰が見たって、妙だと気付く。」 男のいう通りだった。寥は稼いだ殆どの金を使わずに隠していた。一部は家計費として家に入れ、それ以外は一切使わずに仕舞ってあった。この世界の連中には、独特の嗅覚がある。寥も件の男性と付き合うようになって以降、そのことは知っていた。彼らは金か筋でしか物事を計らない。無論、専ら前者になってしまっていることも知っていた。そして、 「今日、太いのが入りまして。あと一回。そう思いながら、今日まで来ました。それが済んだら、足、洗おうと思うんです。飼っていって、すみません。」 寥は自身が組織内では稼ぎ頭であろうことは知っていた。随分と利益を上げたのだから、抜けさせてはもらえるかも知れない。しかし、決して人には言えない秘密を共有する故に、逆に消されるかも知れない。それを逃れる唯一の方法があるとすれば、筋だろう。そういう淡い期待も無くはなかった。さあ、どう来る。寥は高鳴る心臓とは逆に、冷静を装った。ところが、男の反応は意外なものだった。 「そうか。ま、確かに、何時までもやるよーな商売じゃ無えからな。」 男は淡々というと、再び煙を燻らせた。そして、厳かな腕時計に目を遣りながら、 「お前がこーいう物に目が眩む程度の人間なら、余計なことで悩まずに済んだものを・・。なまじ賢いだけに、悩んだろ?。」 と、まるで寥の心の内を見透かしているようにたずねた。 「・・・あ、いえ。」 寥は言葉に窮した。金銭欲にだけ引っ張られる大人達を見て育った青年期。そして、そのことを抗うかのように、一見、周囲に染まっているように見せかけつつも、自身の幸福を見出そうとしていた自分。もし、上手く組織から抜け出すことが出来たなら、ため込んだ金を元手に、新たに何か商売でも会社でも始めることが出来る。だから、今は兎角、この場を無事に切り抜け、未来に自身の命を繋ぐことに集中しよう。寥は必至に頭を回転させながら、そう考えていた。すると、男は吸い殻を窓から投げ捨てて、窓を閉めた。そして、 「お前なら、吸い殻は外へは捨てない。だろ?。」 男は横目で寥にたずねた。 「・・あ、はい。」 「だろうな。お前は抜かりが無い。差し詰め、たんまりと貯めた銭で、新たな商売でも始める、そう言う腹だろ。」 男の読みは、悉く図星だった。もう彼に隠し事をしても、何の役にも立たない。さあ、消させるか、それとも、僅かな期待通り、抜けられるか。すると、 「解った。好きにするがいい。」 男は遠い目をしたまま、寥にそう告げた。意外だった。そんなアッサリ抜けさせてもらえようとは。寥は拍子抜けした。寥の心臓の高鳴りは、恐怖のそれから、歓喜のそれへと代わりつつあった。抜けられる。この闇の世界から抜けられる。しかも、無事に。ハンドルを握る手に力が籠もった。車内は暫し沈黙が続いた。そして、いつも男を下ろす地点まで、あと十分程といった所で、 「オレ達は追わない。抜けるのも勝手だ。口も硬いし信用はしてる。だがな、」 男は続けた。 「オレ達は構わないが、お前の心が、抜けさせてくれるかな?。金額のデカさ以前に、これほどのスリルを、この先の人生で、誰が一体、見させてくれるっていうんだ?、え?。」 男がそういうと、程なく目的地に着いた。そして、男は車を降りしなに、 「じゃ、またな。」 そういうと、がさつにドアを閉めながら、ポシェットを小脇に抱えて、去っていった。寥はしばらく、車を発進出来ずにいた。図星の小悪魔が、寥の前進に金縛りの魔法をかけたのだった。
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