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「いいお湯だった」
一週間ぶりの湯船はやはり気持ちが良かった。芯から温まった体はいつもより調子がいい気がする。私は気分よく杖をついてリビングに戻ると食卓の椅子に座った。
私は三年前に脳梗塞を起こして入院した。幸い命の危険は無かったが、左足に軽い麻痺が残ってしまった。装具と杖が手放せなくなったが、どうにか周りの助けを借りながら一人暮らしを続けている。
今日も訪問介護の日で、一人では入れない浴槽への出入りを補助してもらっていた。
私が一息ついたのでお茶を飲もうと準備していると、ヘルパーの綾子ちゃんが脱衣所からひょいっと顔を出した。パーマのかかった茶髪がふわふわと揺れてた。
「林さん、お風呂場のお掃除終わりましたよ」
「ありがとうね。よかったら綾子ちゃんも一緒に飲んでって」
私がそう言うと、綾子ちゃんは時計を確認してからにっこりと笑った。
「いいんですか? じゃあ、お言葉にあまえようかな」
来客用の湯呑に緑茶をそそいでおせんべえも一緒に勧めると、分かりやすく目尻が下がった。砂糖をまぶした甘いおせんべえは彼女の好物だ。いそいそと椅子に座る綾子ちゃんに思わず笑みがもれた。
綾子ちゃんは訪問介護を利用するようになってからずっと担当してくれている。今ではもうすっかり孫のように可愛く、今日のように時間がある時はよくお茶に誘っていた。話す内容はたいてい夕飯の献立やらドラマの話などとりとめのないことだ。今日も途中まではそうだったのだが、綾子ちゃんが不意にこんなことを聞いてきた。
「林さんは過去に戻りたいと思ったことはないですか? もしあと一回だけ過去に戻ってやり直せるとしたら、林さんはどうします?」
「心理テストかしら?」
私がそう聞き返すと、綾子ちゃんは首を横に振った。
「最近、過去に戻れるっていうスマホのアプリが出たんですよ」
ごそごそとポケットを漁りスマホの画面を見せてくれたが、指先には開いた本のようなマークとリトライの文字があるだけだ。
「これでそんなすごいことが出来るなんて見えないわ」
「このアプリで戻りたい時の自分の写真を読み込ませると、その時に戻れるんですって。ただし使えるのは一人一回みたいなんです」
私がしげしげと眺めていると綾子ちゃんが詳しく説明してくれた。有名人の中にもこのアプリを使って過去から遡って来ていると公言している人もいるらしい。これから起こることを何でも言い当てるので、未来人と言われてインターネットでは本物だと騒がれているそうだ。
詳しい仕組みは分からないが、本当にそんなことが出来るのだから技術の進歩とはすごい。
「好きな時代に戻れるなんて便利ね」
私が関心しながら呟くと、綾子ちゃんは大きく頷いた。
「林さんだったら、病気になる前からやり直したら杖もいらなくて元気に生活している未来もあるかもしれないんですよ」
「もしそうなったら、それは素敵な未来ね」
「でしょ! でしょ! 林さんも試してみませんか!?」
ぐいぐいと勧めてくる綾香ちゃんに、私は自分の考えをまとめながら口を開いた。
「でももしかしたら、私の足が悪くなるのは変えられないかもしれないわよね。病気じゃなくても事故とか。ドラマとかで過去に戻るとそういうパターンも結構あるわよね。今より悪くなるかもしれないし、あの辛いリハビリをもう一度するのはおばあさんの私には耐えられないわね」
「もう! どうして後ろ向きなことばかり言うんですか! 行動しないと何も変わらないじゃないですか!」
否定ばかりされて少し怒りだした綾子ちゃんに苦笑しつつ続けた。
「過去を変えるのが絶対に良いことだとはかぎらないでしょ? それに今だって全部が全部悪いことだけじゃないのよ? 足が悪くなってから綾子ちゃんとお友達になれたし。それに今楽しみに追っているドラマもあるのよ。過去に戻ったら最終回もまだ見ていないのに何年もお預けになっちゃう。だから、私はやり直さなくてもいいのよ」
私がおどけつつも最後はきっぱりそう言うと綾子ちゃんは反論したいけどどう言っていいのか分からないといった顔で口をまごつかせた。上手くいくとは限らないことは当然綾子ちゃんも考えのうちにあったのだろう。
「そのアプリをもう入れているってことは、綾子ちゃんは過去に戻ってやり直したいことがあるのね」
だから私のほうから聞いてみた。聞くというより断定のようになってしまったが少し間があって綾子ちゃんはゆっくりと頷いた。
「……どうしても変えたい過去があってやり直したいんです。アプリのことを知って、インストールと登録まではすぐでした。写真も取り込んで、後は決定を押すだけなのにやっぱりどこか怖くて。林さんも乗り気に見えたから、一緒だったら押せるかなって思っちゃいました。でも怖いからって人を巻き込んじゃダメですよね」
すみませんでしたと頭を下げる綾香ちゃんに気にしていないからと言ったが、眉を下げてしょげている姿に困ってしまう。
「過去に戻るのを選んでも諦めても。どちらを選んでも私は綾子ちゃんの選択を応援しているから」
「ありがとうございます」
お礼を言ってはくれたが気まずくなったのか、綾子ちゃんは次の現場があると荷物をまとめると慌ただしく帰っていった。
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