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「頼む由佳里。一度だけチャンスをくれないか」
「いやよ。前そう言われてそっち行った時も嫌な思いしたもの。もう私はあの女に会わない方がいいのよ」
今まで私を苦しめたものを実家とも母とも呼びたくなかった。本当は父とも連絡を取りたくなんてない。家を、私を顧みることがなかった男なんて口も聞きたくない。しかし何か一つ連絡手段を残しておかないとあの人たちは厄介な手段をもってでも私に接触しようとするだろう。探偵とか、もっと言えば反社会的勢力とか。だからと教えておいた電話番号に、ここのところ毎日のようにかかってくる電話に私は大いに疲弊していた。
「あの女だなんて。母さんに対してなんて言い方をするんだ」
「母というのはあんなに子供を支配しようと躍起になるものなの? 少なくとも周りにはそんな親いなかったんだけど」
「今まで世話になった恩を返そうという気はないのか!」
「そんなの、私の人生を返してほしいくらいよ!」
つい大きな声を出してしまった。どれだけ言葉を尽くしても、どうせこの人たちが私の気持ちを理解してくれることなんてないのに。でもさっきは心からの叫びだった。私が本当に進みたかった法学への道を返してほしい。私が本来着たかった服を選ぶ自由を返してほしい。私が成長する過程で培われるはずだった自己肯定感を、自信を返してほしい。全部奪ったのはあの女じゃない。
「あと一回だけ。……実は母さん、もう長くないんだ」
「え、どういうこと?」
「癌でな。しておきたい話もあるだろう」
「私にはそんなのない」
「お前には人の心がないのか?」
そんなふうに育てたのはあなた達じゃない。そう言いたかったがどうせ理解されないと思って口をつぐむ。言いたいことは山ほどあるが、どうせこの男は自分が聞きたい話以外聞きはしないのだ。何も話が通じずにどんどん疲弊していく。今だってもう心身ともにすり減ってきた。
しかしあの女の老い先が短いとは。憎まれっ子世に憚るというものだから、あの女はきっと妖怪のように生き続けるのだろうと思い込んでいた。そうか、死ぬのか。私はようやく解放されるのか。終わりが見えていると思うとなんだか気持ちが高揚してくる。それこそあの女が死ぬ前に言いたいことを全部言ってやろうと思うほどに。
「日曜なら行ける」
「おお、そうか! でもなんで日曜なんだ。具合が悪いと言っているのに、明日にでも来ようとは思わないのか」
「仕事があるもの」
「女のくせに仕事なんかにかまけているからいつまでも独り身なんだ。だいたいお前は」
「そんな言い方されるから会いたくないのよ。いいわ。死に際ですら子供に会ってもらえない親として死ねばいい」
世間体をだけを気にして生きてきた男だ。こういう言い方をすると嫌がると思ってわざと言葉を選んだ。案の定男はぐっと押し黙り、そしてややあって「分かった」と返事をした。
「……分かった。日曜にうちに来い」
来てくださいの間違いだろうと言いたかった。しかしこれ以上話を続けていては私の精神が限界を迎えると判断して「じゃあ日曜」とだけ言って勝手に電話を切る。そしてそのままスマートフォンの電源まで切った。私の電話の切り方が気に入らないとか言ってまた電話をかけてこられてはたまらない。
そして日曜日がやってきてしまった。車を走らせながら深いため息を吐く。できればこんなところには二度と近づきたくなかったのに。いつの間にか窓からは見慣れた景色が見える。幼少期から慣れ親しんだ景色のはずなのに、私には地獄のように見えた。この地には嫌な記憶が多すぎる。とっとと顔だけ見て早々に帰ろう。どうせ身も心もダメージを受けるだろうと明日も有給休暇をとってあるから、一日心身を休めればいい。とにかくあの二人に関わらなければ私はちゃんと一人で生きられるくらいの能力はあるのだから。
少し遠いコインパーキングに車を止めてのろのろと生まれ育った家まで歩く。ふと子供の声に顔を上げる。広々とした大きな公園では子供たちが大勢遊んでいた。こんな公園、近所にあっただろうか。全く記憶にない。そして子供を優しい目で見守る大人たちの姿を苦々しい思いで睨みつけた。あんなこと、私は一度だってしてもらったことがない。
私を生んだ女とその旦那は所謂「毒親」というやつだったのだと思う。とにかく親になる資格もなければ人を育てるという責任も果たせない人間だった。
父の方は仕事ばかりにかまけて私にほとんど関わってこなかった分だけまだマシだった。問題は母親の方だ。あの女は私を自分よりも下の存在として支配下に置きたかったのだろう。あいつらから離れて視野を広げてみて分かったことがある。きっとあの女は誰かを虐げないと自分の立場を価値を確立できない人間なのだ。
私は不幸にして、多分それなりに優秀な方の子供だった。だから母は私を下に位置づけようととにかく粗を探し続けた。優秀な成績表を持って帰っても「お勉強ができても。女の子は愛嬌がないと」と言った。ならば人に好かれればいいのかと思ってそう振舞えば「媚びちゃって。嫌らしい」と言った。一事が万事そういう感じ。
ただあの女は自分が常に上の立場であると示したいだけだから、私への指摘に一貫性がない。とにかく私の自信を全て叩き潰して、私から選択の自由をすべて奪って、それで。これ以上私から何を奪うつもりで連絡してきたのだろう。伏魔殿を睨みつけ、インターホンを鳴らす。バタバタと音が聞こえてガラッと開いたドアから姿を現したのは最後に見た姿から随分と老いた血縁上の母だった。
「……由佳里、よね」
「なんだ。元気そうじゃない」
「相変わらず嫌味っぽい子だね。うん、由佳里で間違いない」
相変わらずなのはお前の方だろう。出かかった言葉をぐっと飲みこむ。そんなこと言ったところで無駄に時間と体力を消費するだけだ。とにかくとっとと話を聞いて言いたいことを全部言って帰ろう。促されるまま家に足を踏み入れる。
家の中は私がここを出た時から随分と様変わりしていた。なぜかあちこちに段ボールが転がっている。開きっぱなしになっている扉から空き部屋を覗く。どの部屋も物置と化していた。きっと私の部屋ももう残っていない。というかそもそもあれは私室と言えたのだろうか。私が勉強していても何をしていても二人とも勝手に入ってきたし、私がいない間に物を移動させたり捨てたり好き放題だったけど。ああ、嫌なことを思い出してしまった。
「段ボールだらけだけど、引っ越しでもするわけ」
「何言ってんの。そんなわけないじゃない。ここは私たちの家なんだから」
私たちの家、というか二人の家なのだろう。ここに私の居場所があったことなんてない。吐きそうな思いのままリビングに足を踏み入れる。ソファには憮然とした表情の父が座っていた。しかし周囲はものだらけだ。もしかしたら虐げる対象がいなくなったことで二人の生活は破綻したのかもしれない。ざまあみろと思ってしまう私は性根が腐っているのだろうか。そんな自嘲をしながら「ごきげんいかが?」と笑みを向けてやった。
「見ての通りだ」
「病人働かせて自分は座ってるってのも相変わらずみたいだね」
「病人なんて大袈裟な」
「長くないって言ったのはそっちだけど」
「そんなこと言ったの。抗がん剤治療だけで治るかもって言われてるくらいなのに」
ああ、そこも変わってないのか。この男はとにかく色々なことを大袈裟に言って同情を引こうとするのだ。私が少し熱を出した時に「インフルエンザは感染するから」とか人を言い訳に使って長い間仕事を勝手に休んでいたのを思い出した。苦しむ私のことを放置して二人で海外旅行に行ったっけね。あのせいで確か仕事をクビになったんだっけ。まああの件が決め手になって教師がスクールカウンセラーと話をしてくれたのが家を離れるきっかけになったから私にとっては人生最大の幸運だったが。
「ならもう用事はないね。帰る」
「相変わらず冷たい女だな。どうしてお前はいつもそうなんだ」
「ご自分の胸に手を当てて考えてみればよろしいんじゃないでしょうかね」
私がこれからどれだけ恨みつらみを口にしても、二人は「うんうん」「そうね」というだけで謝ることはない。この人たちは私がわがままを言っていると思っているのだ。そしてそれは自分たちが聞く必要も価値もないものだとも。
これ以上何を話したって無駄だ。というか私は一体何を期待したのだろう。こうなることくらい、来る前から、いやもうずっと長い間分かっていたはずなのに。深いため息を吐いて立ち上がる。もうここに来ることもない。
「じゃあ、永遠にさよなら」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。まだ話は終わってないでしょ」
「私と『対話』をする気なんてないんでしょ。だったら話なんてないに等しいじゃない」
「相変わらず小難しいことばっかり言って。可愛げのない」
「そんなんだからこっちに帰ってきてもどうせ友達もいないんだろ」
「ここにはもう来る理由なんてないからどうでもいい」
「何言ってるの。これからあなたが家のことするんでしょ」
「は?」
女の言葉に思考どころか息も止まる。一体何を意味不明なことを言っているのか。どうして決定事項のようにこんな馬鹿げたことを口にできるのか。無駄だとは思いながら男を見る。案の定男も私の意思を全く無視した女の意見に同意しているらしく「うんうん」と頷いていた。
「母さんの通院のこともあるし、入院なんてしたら家事する人間がいなくなるからな」
「じゃあお前は何すんだよ」
苛立ちのあまりつい語気が荒くなる。しかしもう取り繕うほどの余裕もなかった。これ以上この意思疎通の不可能な生き物の話に耳を傾けていたらこちらの頭がおかしくなる。
「おま……親を相手に今なんて言ったんだ!」
「縁切るって何回言ったら理解できるわけ? もう関わる気はないって言ってる!」
「縁なんて切れるわけないじゃない。親子なんだから」
そう言うと女は私を掴もうと手を伸ばしてきたので咄嗟に払いのける。そしてカバンを持って立ち上がり、足早に玄関に向かう。その背に向けて二人は大きな声を上げた。
「謝ったんだからいいじゃない。どうしてあんたはそんなに心が狭いの」
「いいじゃないか。家族だろう。いつまでもヘソを曲げているんじゃない」
うるさいうるさい。謝ってもらった覚えもない。もう縁を切ったはずだ。どうしてこいつらは当たり前のように私の人生を食いつぶそうとするの。
絶望のまま靴を履こうと下駄箱に手をつくと、不意に硬いものが手に触れた。目をやると段ボールを開封するためのものと思われるカッターナイフ。それを掴んでぼんやりと見つめていると肩を掴まれて思いっきり地面に叩きつけられる。顔を上げると激昂した表情の男と女が私に手を伸ばしていた。手の中にはまだカッターナイフがある。果たしてこの刃をどこに向ければ私は解放されるのだろうか。こいつらか、それとも私か。
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