一月の城

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一月の城

 校舎裏。うす暗いなかでパンをかじっている南子(みなみこ)の足下で、小石が跳ねた。純奈(じゅんな)かと思い身構えたが、康介(こうすけ)だということに気付き、より警戒しなければならなかった。  康介はなんの断りもなく南子の横に座ると、炭酸飲料をごくごくと飲みはじめた。兄がペットボトルの先を口の奥まで入れている分、どうしても比べてしまうところがあった。南子は、康介の飲み方のほうが好きだった。 「大変だよな。川瀬だろ。悪いことをしてくるのは」  南子は押し黙ったまま、ツナパンをかじった。目線はさっき飛んできた小石に注がれていた。康介が、目の前に見えるグランドを気にしているのは分かっていた。  奥野(おくの)さんのことが好きなのに、なぜ自分に声をかけるのだろう。なにか裏があるに違いない。  南子は家に帰ると、康介と奥野さんが無事に結ばれ、仲睦(なかむつ)まじく恋人どうしの付き合いをしているところを想像し、奥野さんが見ている前で康介を(もてあそ)ぶ……という妄想をして、自らを(たか)ぶらせた。  こうした屈折した妄想は、南子には愉快だった。それは、自分を(ないがし)ろにするクラスメイトたちへ与える、嗜虐的(しぎゃくてき)な妄想の中のひとつに過ぎなかった。  しかし時折、泣きそうになることがある。本当は、康介は自分のことが好きなのだ。そう素直に思ってもいいのではないか。自惚(うぬぼ)れることは悪いことなのか。奥野さんに片想いをしているというのは、噂でしかない。  卒業後、紆余曲折(うよきょくせつ)あり、南子は仕事を辞めて声優の専門学校の門を叩いたが、バイトをしているうちに、ひとりの男性に()かれてしまった。そして付き合うことになった。そのせいで、学校に行く回数も減った。  しかし、それは幸福と言い切れるものだった。  南子は、たくさんの初めてを彼に与えたし、彼もまた、初めての経験を彼女に施した。その後、ふたりは同棲をした。結婚も視野に入れていたが、またしても南子は恋をしてしまった。  缶コーヒーとサンドイッチと、レジの横に置いてあるチキンを、毎日買っていく男性に、電話番号を書いた紙を渡されてしまい、断るつもりで……いや、好奇心から電話をかけた。 「電話をかけてくれると思いましたよ。今日の夕方の六時前くらいに」  この彼の一声目に、一瞬で心を(つか)まれてしまった。  洋二郎は、何事にもキチンとしたひとだった。だけど、南子にそれを強要しなかった。きみはそうしていていい、と言わんばかりに、彼はひとり、規則正しく清潔な生活を続けていた。  すると自然と、南子の奔放な色欲が抑えられていった。不倫相手との交際を断ち、洋二郎だけを情愛の対象とするようになった。  彼女の人生は、まっさらで無味乾燥なものへと変わってしまったが、そうした「生き方」も悪くはないと思いはじめた。  洋二郎とは相性がよかった。何事にも。それに、いままでの彼氏とは違い、色んなところへ連れて行ってくれた。旅行先は国内だけで、あまり混まない時期に予定を立ててくれた。  それだけに、解放感を感じることができた。(まば)らというものが自由と表裏にあるのだと、そのときに気付いた。  洋二郎と結婚しよう。二度と、不倫はしない。そう、決意した。  一月の中旬。ふたりは西の都へと旅行に行った。  文学系の同人誌即売会が目当てだったが、神社仏閣とかにも寄ろうと洋二郎は言い、その身勝手な提案に南子も同意した。自分からどこそこへ行きたいと主張するより、身を任せる方が、自由を感じられたから。  ビジネスホテルの禁煙の部屋(ルーム)。清水寺や東寺を巡った一日目は、あまりにも寒くて震えてばかりだった。洋二郎は、人気のないところでは、南子を後ろからぎゅっと抱きしめ続けた。マフラーをほどいて、首筋に口づけをすることもあった。  もうひとつベッドがあるのに、ふたりはひとつ同じところで眠った。エアコンの温度を上げなくても、汗がでるほどあたたかかった。 「脱いでいい?」 「僕も脱ぐよ」 「ふたりとも脱いじゃったら、しちゃうかもしれないじゃない」 「大丈夫。いまなら、キスだけで幸せになれそうだから」  ふたりは口づけをして、身体を寄せ合って眠りへと落ちていった。良い夢とよく分からない夢が混じり合ったような夢を見た。  二条城の天守閣跡へ繋がる石段は急で登りづらかった。洋二郎は南子が転んでも大丈夫なように、背後についていた。しかし勢いよく後ろに倒れれば、ふたりとも真っ逆さまに落ちるくらいの傾斜だった。  この日は晴れていた。のみならず、みぞれが降ったり降らなかったり目まぐるしかった。風も強かった。遠く山の方で虹が架かることもあったし、目の前に七色が輝くこともあった。 「(うぐいす)……だったかな。鳥の鳴き声がしてたね」 「そんなの、あの場で言えばいいのに」 「だって、中では静かにしなきゃいけないからさ」 「だったら、わたしの耳にささやけばいいのに」  冷静を装う南子だったが、洋二郎も負けずと普段のままであろうとした。  天守閣跡からひとが消えた。石段を下るひとはいても、登るひとはいなかった。みぞれが止んで、強い風が吹いた。 「結婚しようか」 「うん、いいよ」  洋二郎は、後ろからぎゅっと南子を抱きしめた。マフラーをほどいて口づけをした。こそばゆいと、彼女は笑った。  〈了〉
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