8人が本棚に入れています
本棚に追加
あと一回の魔法
「まま、あといっかい」
「ん、ちょっと待ってね」
海斗が絵本を持って、キッチンに立つ私の横にやってきた。
さっき10回は読んだのだけど。
そろそろ夜ご飯の準備を始めなければならない。
壁時計はすでに夕方6時をさしていた。
冷蔵庫を開けて豚肉、キャベツとタマネギ、人参を取り出す。
──焼きそばでいいかな。
麺も手に取る。
トマト、ハム、きゅうり、チーズ。
サラダはこれでいいや。
「ままー、あといっかいでいいから」
海斗の声が涙声になっている。
もう。
しょうがないな。
私は出した食材をそのままにして絵本を受け取った。
リビングのソファに座って海斗を膝に乗せる。
4歳になる海斗は、絵本が好きでよくせがんでくる。
読み聞かせは得意ではないけれど、母親になって何度もやっているうちにすっかり慣れた。
こういうこと、夫の栄輔ができるといいんだけどな。
読み聞かせとか、体を使った遊びとか。
夫婦って足並みを揃えて一緒に『親』になっていくものだと思っていたけれど、そうでもなかった。
栄輔はこどもの扱いが下手だった。
一緒に遊ぶのも得意ではなかった。
気にいらないことがあると海斗相手でも声を荒げることもあった。
恋人から夫にかわったときに小さなボタンの掛け違いに気づけばよかったけれど。
こどもが生まれた今となってはもう後の祭り。
「まま、あといっかい」
「今読んだでしょ?」
膝の上の海斗のお願いは限りがない。
このくらいの子は、あといっかい、という言葉を魔法の言葉だと思っているんだろうな。
ちらりとキッチンを見れば、全く手つかずの食材が並んでいる。
──ああ困るな。
この時間はまだ栄輔は会社だけれど、帰宅は結構かなり早い。
帰ってきてすぐ夜ご飯を出さないと『俺のメシは?』とイラッとした声をだす。
その声で私はいつも胸がきゅっと絞られるような気持ちになる。
「まーまー! あといっかいあといっかい」
海斗のおねだりは容赦なく私の耳を突き刺してくる。
私はため息をついて早口になった。
「待ってってば。夜ご飯の準備してからね。海斗、お膝から降りて」
「まーまー」
無理に膝からおろすと、海斗は絵本を放りだして私の膝にしがみついた。目から涙があふれている。私の膝が海斗の涙で濡れた。
つめたい。
「まーまー」
「もう夜ご飯の準備がしたいの」
きっぱりと伝えて海斗を膝からはがした。
つめたい。
わかってる。
こういうときに、ぎゅっと抱きしめて絵本を手に取ればいいのだ、本当は。わかっている。
でも。
「パパのご飯、作らなくちゃだめだから。ね、海斗」
「ぱぱまだだよー」
「そうだけど。でもパパ、すぐにご飯が食べたいっていうから」
自分でも泣きたくなる言い訳。
私の声が怖かったのか、海斗が大声で泣き出した。
「ごめんなしゃいーごめんなしゃいー」
びいびいと泣く海斗に背を向けて私は包丁を握る。
キャベツをザクザクと切って、タマネギを剥いて切って。人参を……。
──だめだ。
私はキッチンに包丁も食材も全てを放りだし、泣き続ける海斗のところへ駆け寄った。
ぎゅっと抱きしめるとぴたりと泣き止む。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をエプロンでふいてやると、少し笑顔になった。
「まーまー」
「ごめんね」
「まーまー」
私は大事にすべき人を間違えているのかもしれないと思う。
この子をこんなふうに笑顔にできるのは、今は私だけなのだから。
気にいらないことがあるとすぐに怒る栄輔の機嫌を優先するのではなくて。
海斗の笑顔を大事にすべきなのではないか。
むしろ、栄輔が読み聞かせをしたっていいのだ。
苦手だとか言ってないで。
やらなければ得意になる日なんて永遠にこない。
私に余裕がないときは栄輔が。
栄輔が余裕がないときは私が。
不得手なこともやればやるだけ上達するはずだから。
そうやってふたりでちゃんと親になっていく。
それが夫婦ってものではないのだろうか。
*
栄輔が帰宅したのは夜7時。
あれからエンドレスの読み聞かせタイムが始まってしまい、結局夜ご飯の準備は後回しになってしまった。
「俺のメシは」
栄輔の第一声。
ダイニングテーブルをちらりとみて、何も用意されていないことに気がついたようだった。
「あと一回」
「え?」
「あと一回それを言ったら私、もう何もしないよ?」
「え?」
目を大きく見開いて栄輔が私を見た。
私はそれを無視して続けた。
「だって私、遊んでたわけじゃないもの」
「え」
「あといっかい? まーまー」
海斗が嬉しそうに大きな声を出した。
私が口にした『あといっかい』という言葉に反応して海斗が笑顔になる。
「あと一回よ、海斗。パパが読んでくれるって」
「え?」
突然読み聞かせの出動を言い渡され、栄輔は目を白黒させた。
「苦手だから無理」
「でも親だって苦手を克服していかなくちゃ『親』になれないでしょ? 海斗が人参を食べたりトマトを食べたりできるようになるのと同じで。だからお手本になってよ、パパ」
「ぱぱー。あといっかいなのよ」
にこっと笑って栄輔に絵本をぐいと押しつける海斗。
ものすごく期待を込めたキラキラした目で栄輔を見つめている。
なんていい子。
「『あと一回』って魔法の言葉なのよ」
「ええ?」
ネクタイをゆるめながら栄輔が声をあげた。
観念したように、ぽすん、とソファに座り込む。
海斗がその膝にちょこんと乗った。
新しく本棚からもってきた絵本を差し出して。
「あといっかいなの」
「しょうがないな、あと一回だよ?」
その会話を聞いて私は頬が緩んだ。
肩をすくめ、途中にしていた野菜の続きを切る。
焼きそばをじゅうっと焼き始めるとリビング中がソースのいい匂いでいっぱいになってきた。
「ぱぱー。あといっかい」
海斗の何度目かの『あといっかい』を聞きながら、私はふふっと笑った。
──夜ご飯の用意ができたら救出してあげようかな。
そんなことを思いながら。
最初のコメントを投稿しよう!