私はニケでいたかった

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 お邪魔します。太一は私の家に上がるとき、決まってそう言う。私しか家に人がいなくても。玄関のドアを開けて彼を招き入れるとき、お金にも女にもだらしないダメ彼氏が家に転がり込んでくるというシチュエーションをいつも妄想するけれど、だらしないのは私の方だろうな、とも思う。それこそビニール傘をいっぱい溜めちゃうぐらい。 「麦茶でいれてくるね、そこで待ってて。あと…」 「そこの黄色の襖は開けないよ、ゼッタイ」  いつも、ありがとう、という言葉を残して、私は台所へ向かう。いつも、と、ありがとうの、言葉の間に入る、理解がはやくて助かる、という言葉は省略して。  決まった門限もない私と両親の唯一の取り決めは、友人を招いたとき、黄色の襖は絶対に開けさせないことだ。この家に遊びに来ることが日課になっている太一にとってはこのルールは身体の一部になっているのかもしれない。  二人分の麦茶を入れたコップを居間に戻ると、テーブルの上に広げた数学の参考書の前であぐらをかいていた。私は彼に向かい合うような位置に座って、本を広げる。 「昨日の「土曜邦画劇場」観た?」 「観てない。何やってたの?」 「えー、なんだっけ?なんちゃらの神隠し?まあ、俺も観てないし」  神隠し、という言葉に心臓が、胸の中で浜に打ち上げられた魚のようにびくびくばたばたしだす。心臓の音が、耳元でドラムをかき鳴らしているみたいにうるさい。 「そういえばさ、ずっと読んでるよね、『シラノ・ド・ベルジュラック』好きなの?」 「好き、じゃないよ。そんなに」 「じゃあ、なんで?」  私の頭の中で、彼の、じゃあ、なんで?と言ったときの口の動きが繰り返される。思わず彼から視線を逸らしてしまったことは、じゃあ、なんで?の後に続く、そんなにボロボロなの?という言葉に蓋をしたようなものだった。私の目線の先にはそのボロボロになった『シラノ・ド・ベルジュラック』の表紙がある。    トイレ、行ってくる、居心地の悪さを感じた私はそう言って立ち上がる。その刹那、私は、あっ、という言葉も言えぬまま、バランスを崩して転倒する。制御が効かなくなった身体はあろうことか、あの黄色の襖へ。 ガッシャーン  ひより、大丈夫か!!!という彼の声と、転倒の痛みが襲ってきたのは同時だった。大丈夫、ちょっと転んだだけだから、彼にそう言い残して立ち上がろうとする。けど、彼の視線は既に私にはなかった。 「何だよ、これ?」  転倒の拍子に襖が派手に外れ、顕わになった8畳の部屋。殺風景な和室にぽつんと置かれた仏壇。その遺影。 「ひより…だよな」  その言葉は私ではなく、遺影の少女に向けられたもので。彼の視線は未確認生命体を見たといった感じで、私の顔と遺影をいったりきったりしている。転倒の際に生じた足の痛みはもう、既にひいていた。 「ああ、そうか。そういうことだったのか。思い出した!全て、思い出した!!!あれは夢なんかじゃあない、ってことも。あの日、溺れた俺をひよりが助けてくれたことも。そのせいで…ひよりが死んだってことも、全部」  膝から崩れ落ちるようにしてストンと倒れ込む。はりきっていたぜんまいがピンとはじきかえったカラクリ玩具のように動かなくなる。 「でも、一つだけ思い出せないことがある」  乾ききっている彼の唇が次の言葉を紡ぐまでの数秒間、世界はゆっくりと哀しみをもって、苦しさをもって、厳粛に、まわる。 「君は…誰だ?」 「私は…」 私はひよりだ。私はひよりだ。わたしはひよりだ。わたしはひよりだ。わたしはひよりだ。わたしはひよりだ。わたしはひより。わたしはひより。わたしはひよりわたしひよりわたしひよりわたしひよりひよりひよりひよりひよりひよりひより 違う!!!!! 「私は…みより」
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