私はニケでいたかった

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「で、お役目はどうなの?もう少しで「大漁祭」だけど」  学校帰りの道で、平均台を渡るみたいに防波堤の上を歩く彼の声は、いつものように少し気怠げな響きを帯びていた。  なんで、どうしてそんなことを聞きたい?  返答するまでに数秒を要している私。大袈裟に両手を広げてバランスをとる彼の背中が少し遠くなる。まあまあかも、と答えてみたけれど、たぶん潮騒にかき消されてしまったのだと思う。まあまあ、というどっちつかずな意味も一緒に。  お役目。私の家系は代々、島の祭事と政治を司ってきた。いわゆる祭政一致である。彼が言う「大漁祭」というのは夏祭り的な立ち位置のもので文字通り大漁と海の安全を祈願した祭である。興行的、宗教的な意味合いは言わずもがな漁業が主産業であるこの島においては、政治的な意味合いも強く、1年の催事の中で最も重要といっても過言ではない。この祭での私の役割は巫女として神社で舞を踊って、神輿を模した小舟に乗り、島を一周することである。言い換えれば、私は“サモトラケのニケ”のように崇め奉られるのだ。皮肉にも片腕がないというのが神聖な意味合いを持って。私は玉座から降りることは出来ない。そうすることが求められているし、それが朝、目覚めたときに起きる理由であるから。  あんな事件があったというのに呑気なものだと思う。実際、私は多くのものを失った。いや、違う。あの事件は不明瞭だった伝承に輪郭を持たせたのだ。それは私にとっても。 「だからさ、私、ホンモノ見たいんだよね。サモトラケのニケ。ルーブル美術館のダリュの階段踊り場に行ってみたい」 「じゃあ、一緒に行く?全て、投げ出して」 「…何ソレ」  私は彼の過剰な優しさに嫌になる。だから、という言葉の異質さを指摘しないのも。本物のサモトラケのニケなんて観に行けないのに、それを否定しようとしないことも。こんな優しい彼が本当のことを何も知らないのも。全部。 「あっ、女神様だっ!!!」 「また、にいちゃんと一緒だ!」 「おーい、女神様―!!!」  数人の小学生に囲まれる。女神様。この島の中では寧ろ、この呼ばれ方が多いかもしれない。それこそ、私のことを“ひより”と呼んでくれるのは両親と太一ぐらいで、焦点は家族と太一以外の人とどれだけ話をするのかということなのかもしれない。 「もーすぐ、夏休みだけど、何する?」 「虫捕りとか…、ソーダアイス食うとか?」 「いや、あっちーし、ぜってー、海だろ!」 「えっ最高じゃん!海行きてー!!!女神様も来る?」 「えっ、私?!私は…」 「子供だけで海は危ないだろ!!!!!」  私に注がれていた少年たちの視線は怒気を帯びた声のした私の頭の上へと流れる。思わずぎょっとして、振り返ると防波堤の上で般若の形相をした太一が佇んでいた。  私は訳が分からず、少年らにゴメンね、ゴメンね、と言ったけれど、居心地の悪さを感じた少年たちはもう、行こうぜ、という言葉だけを残し、その場を去った。 「ゴメン、ひより…」  少年たちが立ち去った後、彼の口から出た言葉は今にも潮風にゆられて消え入りそうなものだった。気にしないで、それよりアイス食べない?シャリシャリのやつ、という言葉が喉元あたりでつかえて、そのまま体の一部になってしまう。こういうときに、さらりと言葉を投げかけられる気遣いといい加減さが私には少し足りない。 「俺、夢を見るんだ。海を泳いでいたら沿岸流にさらわれる夢を。毎晩、毎晩、毎晩、毎晩。溺れている俺をいつもひよりが助けに来てくれて、夢は終わる。いつも同じだのに、夢って分かっているのに、怖いんだ…すごく」  太一は覚えていない。あの日のことを。だから彼はこのことを夢だと思い続ける。それでいい。私が私でいるためにも。それで。  時間は午後5時過ぎ。汗が止まらないのはむせ返るような夏の暑さがまだ残っているからだろうか。
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