私はニケでいたかった

7/7
前へ
/7ページ
次へ
【Victoire de Samothrace】  夢じゃなかった。確かにそれはフランスのルーブル美術館のダリュの階段踊り場にあって、船の先端を模した大理石の上で薄地のキトンをはためかせている。 「もっと、近くでみようか、みより」  そう隣で囁いた太一は、私の右手をとって、階段を上る。繋がれた彼のごつごつした左手の薬指にはこの世で最も愛おしい煌めきがある。  私と太一は大学進学を機に上京し、共に一人暮らしをはじめた。大学卒業後は島に帰ることなく、中堅企業に就職した。太一とは大学も就職先も違ったけれど関係が途絶えることはなく、28歳の誕生日にプロポーズを受けた。アレ?私たち、いつから付き合ってた?という言葉に対し、えっ、俺もわかんない、と返されたのは今となっては良い思い出だ。そして、今、夏季休暇の期間を使って、フランスのルーブル美術館に訪れている。 「着いたよ、みより」  彼の声に私は改めて視線を上げ、サモトラケのニケと対峙する。眼前のニケ像は向かい風に抗うように大翼を広げ、キトンのひだが象徴的に映し出されている。  頭部の欠損を見て、私はふと思い出す。あの島のことを。母にすらのけ者にされていた私はあの事件をきっかけに“勝利の女神”となった。皆のニケ像になった。あのままでも幸せだったのかもしれない。けれど… 「もう、いいや」  私の頭の中の言葉はその純度を下げることなく、ぬるりと発せられる。  私は彼の手を繋いだまま、踵を返そうとする。ホントにいいの?という彼の声は聞こえないふりをして。 「それよりさ、食べに行かない?シャリシャリのやつ」  去り際に見るニケ像はとてもちっぽけなものに見えて、とても滑稽だった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加