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「すみません、隣、よろしいですか」
老女はページから顔を上げリーディング・グラスをずらし声の主を見た。
ひょろりとした青年が立っている、気弱そうな大学生がそのまま歳を重ねたような見た目はごく普通で、肩からショルダーバックを下げている。
柔らかいその表情を確かめ、周囲の様子も見た。
週末の公園は平和そのもので、散歩する老人や犬、遊具の付近に親子連れなどの眺めがあり、巡らされた順路には無数のベンチがある。
そして老女の見る限り、ほとんどのベンチは空で、座りたいならば好きな処が選べるのに。
ベンチは誰のものでもあり、誰のものでもない、老女が持ち主なわけでもなし、本来は許可など必要はない。
ただパーソナルな空間に踏み入るような距離だから一言声をかけたというところだろう。
怪訝に思うけれども敢えて老女は顔に出さず、相手に無言でうなずき、再び読書に没頭している振りをした。
しかし、この青年には何かよからぬ目論見でもあるのだろうか。
自分よりも一回り下、下手をすれば孫の世代だ、それが老婆相手にナンパでもあるまい。
印象の上だけでは、強盗などの企みなどはなさそうだが。
だとしたら特殊詐欺の可能性の方が大きいか、しかし騙し取られるほどの資産もない。
いや、不穏になるのはよろしくない、と老女は振り切った。
自意識が過剰だろう。
年齢とは別に、もういつお迎えが来ても不思議ではない「爆弾」を内側に抱えているしあまりメンタルを乱すことができない。
青年のことはもう空気だと思うことにして本のページ、活字の世界に没入した。
「突然すみません。よく図書館で姿をお見かけしてて」
しかし青年は彼女に語りかけた、さすがに顔を上げざるを得ない。
「お声がけしようと機会を探していたのですが、なかなか出来ずにいました。とうとう今日、お話をさせていただこうと、思い切って」
老女は公園と敷地が地続きになっている中央図書館のあるセンターの建物の方を一瞥した。
今日もそこで数冊借りて、空気の良い公園の日向で一冊を少し読み出していたところだ。
自分をずっと見張っていたというのなら、つまりストーカーということか?いや……
それで?という表情で見ていると弁解するように青年は続けた。
「あ、いえ。僕自身はただのサラリーマンです。何か騙そうとか狙っているとかそういうのではないのです。ただ、とあることで貴女を存じ上げていまして、どうしてもお話をお聞きしたいことが」
すると図書館で見かけて、というのは少し意味が変わってくるのではないかな、と老女は思った。
「霜山邦夫という名前の作家に覚えは……覚えがありますよね」
青年は確信を持って老女にその名前を告げた。
もちろん、老女は知っていた、単に読者というわけではなく。
「二〇年以上前に結構多くの娯楽小説を書いてそれなりに世間に名前も知られていましたが、今ではどれも消えてしまい読書家の人々の記憶にも片隅に追いやられているような名前ですが」
青年は改めて名乗った。
「霜山は筆名ですから本名の姓は平凡で。僕は霜山の甥にあたる者なのです」
老女は自分からは喋らず、青年の言葉に頷くだけで口を開かない。
返答を待ったけれどもそれが無いと悟ると、青年は話を切り出した。
「お話をお伺いしたいのは叔父についてのことなのです。貴女は」
言いかけて青年の言葉が途切れた。
しばらく逡巡し、言葉を選ぶようにしながら言い直した。
「叔父は……」青年は道筋を確かめるように話の出発点を変えた。「僕は昔から本が好きだったせいか、小さい頃から小説家だという叔父の家に度々遊びにいくようになってました。叔父の書く物は大人向けなので両親はあまり良い顔をしませんでしたが、彼の自宅の蔵書に惹かれて書庫の本を読ませてもらっていました。親類からは疎まれたりしていた中、自分を慕っていると思われ悪い気がしなかったのか、行けばだいぶ機嫌よく迎えてくれて子供向けのリライトではない内外の娯楽小説を読ませてもらってました。そういう時期から、彼にとって僕は心の許せる相手になっていたようなのです。」
「叔父は筆が早く、それなりに読み手がついており、様々な雑誌から注文を受けて仕事を手堅くこなしていました。大衆小説の書き手として、批評家からは「低俗」や「粗製濫造」「読み捨て」などとそしりも受けていたようですが、読者受けを優先し精力的に仕事をこなしていました。注文があれば、どんなジャンルの小説でも書く、ニーズに応じて扇情的なものも何のためらいもなく書いていきました。僕はその姿勢が別段間違っていたとは思いませんが、やがて読者の興味が移りゆき、次第に叔父の書くような小説は居場所が狭くなっていったようです。
「叔父は注文が減っていったのもそうですが、自分という存在が急速に忘れられていくことに次第に焦りを感じるようになりました。新しいものを取り入れようとしても、次々現れるキラ星のような若手の作家に太刀打ち出来ず、ベテランの貫禄を使おうとしても批評家に相手にされるような作品を残してこなかったせいか、それまで自作を掲げていた先にいた筈の「大衆」が、自分の前からいなくなってしまったことに呆然としていました。
「その時期から、文壇の評価が気になっていたのだと思います。刹那的に書き飛ばしていたのが、どうにか作品に重みを与えようと丁寧な取材を心がけるようになったように。そして体調を崩し一時はそのまま亡くなるのではという経験もし、「自分の人生とはなんだったんだ」という問いかけが浮ぶようになった、という話もしました。
「叔父は作家として再起を図るために……腰を据えてとある実際の事件を調べ始めました。かつて世の中を騒がせ、様々に揣摩臆測を呼ぶもついに迷宮入りになったとある事件を」
老女の顔に、微かな動きがあった。
青年はそれを見つつ、しかしまだここはポイントじゃないと、話を続けた。
「『御田山家殺人事件』と言われた、その一族のほぼ全てが何者かによって殺害をされたショッキングな事件。まるでミステリ小説そのものの事件は警察の必死の捜査にもかかわらず、犯人の特定がつかずに結局未解決になってしまいました。
「叔父はその事件に目をつけて、当時の資料などを調査し始め、次第にのめり込みました。当初は概要をベースにして、独自の展開と真相を用意して主人公の刑事に解決させるというアイデアで出発しましたが、調査取材を進めるにしたがって、いつの間にか現実の事件の真相解明を並行して行うようになり、執筆構想はやり直されて別の形式になりました。
「それが遺作となった長編小説『三田山家一族』の発端でした」
青年は老女の表情を観察した。
穏やかな表情ではあるけれど、緊張しているのが分かった。
「ゴシップも扱う週刊誌の連載小説として掲載が始まった時には、そのタイトルから実際の『御田山家殺人事件』が当然読者には想起され、煽り文句にしても「霜山邦夫が あの昭和の悪夢の殺人事件の真相と犯人を明らかにする」と、まるで本物の事件を解決するかのような触れ込みでした。連載小説は、週刊誌の読み物としてはかなり特殊な形式だったと思います。大きな枠は小説家「霧山国男」があるきっかけで「三田山家」の人々が連続して殺害された事件の資料を探し、読み解くことから始まる「現在」の物語で、ほぼ執筆時期と同じ時間で描かれるパート。それから枠内の物語として、固有名詞こそ変えられているものの明らかに『御田山家殺人事件』の半ルポルタージュが調査資料と筆者の推測を混えて展開される「実録」で、その二つのパートは交互に語られる。外枠で筆者は執筆しながら「犯人」をあれこれと探して行き、新しい資料を得てから一度語られた場面が違う意味合いで再現される……
「意外なことに、この試みは大いに話題を呼び評判になりました。それまで辛口だった批評家の中にもかつての作品と違う書き込みぶりに好意的な評価も寄せられました。一方、批判もあり、それは名前を変えているとは言え、事件の各当事者・関係者が特定されるような書き方を売りにした、その倫理的な側面についてでした。
「叔父はある部分で悪魔に魂を売り渡していたのだと思います。人生の残り時間を数え、多くの人々の話題をさらい、見られるような仕事をして自分の記念碑に従ったのだと思います。その事件に関わりある、今も生きる人々の気持ちも考えず。
「来るべき最終回に向けて執筆は続けられ、小説の結末は、最終回が掲載される号の発売の日こそ、その時間と重なるになるはずだったんです。
「そして、あと一回。最終回直前の回が掲載された号には、次回にはいよいよ叔父がたどり着いた「事件の真相」、「事件の真犯人」が明らかになる、という展開を匂わせて締められていた。おそらくは叔父の作家人生で最も読者を引きつけた文章となりました。
「ところが」
青年は少し間を置いてから続けた。
「最終回原稿は編集者に渡ることがなかった。次号に作品が掲載されることが無かったのです。訃報と連載中断のお知らせをもって、掲載誌の連載は終わった。あと一回を残して、連載小説は未完になってしまった。
「締め切りを前にして叔父はその原稿を編集者に渡す前に、仕事場が出火し火事に巻かれて急逝してしまったのです。仕事場とともに叔父の幾つもの原稿は火災で焼失してしまった。編集者には作品の結末について何も知らされていなかったために、明らかにされる真相も犯人も永遠位謎となってしまったのです。
「警察や世間では事故という見方で落ち着きました。中には叔父をよく思っていなかったような人々に「大風呂敷を広げたけれども畳むことができず、最後の原稿を仕上げられなくなった、それで話題になるような形での自裁を図ったのでは」という口さがない噂を流した者もいました。
「そんな風になり、翌年にはもう叔父の最後の労作も忘れられてしまいました。
「……でもですね、実は甥である僕に叔父は託していたものがあったんです。最終回の構想は叔父の中でしっかりと決まっていたんです。叔父は編集者を完全に信用しておらず、甥の僕のことを信じて僕だけに最終回に向けての構想などを託していました。
「叔父は最終回の構想を覚書と口頭で僕に話しました」
『小説家「霧山国男」は緻密な調査と推理であの連続殺人事件の真相と真犯人を特定せしめた。
しかし物証はなく最後に推理が正しかったことが証明されるのは本人の自白のみだ、という状況。
「霧山」は調査で探し当てた事件関係者の一人に会いにいく。
この連載小説の取材のため、事件についての聞き取り調査をするという建前で、真犯人の目星をつけた相手との直接対決という、最大のクライマックスに向けたものだった。
核心部分で、「霧山」はその相手に真犯人だろうと暗示する……明白な告発の形は取らず、しかし自分は「あなたが犯人だと確信しています」と相手に伝わるようにする』
「そして最終回の結びはこうなる予定でした。」
『「霧山」は「相手」の取材を終えて仕事場に帰る。
物証はないが、もしも本当に「霧山」が真犯人で恐るべき連続殺人犯であったなら、真相に気付いた自分を放っておくことはない、口封じに自分の生命を狙ってくるだろう、と。
そして読者に向けて、自分のこの最後の作品、本当の結末はこの後の自分の運命にある……もし自分の推理と仮説が真相を射抜いていたのなら、自分は目覚めることがないかもしれない。
もし無事に朝日を迎えることができたなら、ここまで書いて来たことは全て妄想だったということだろう。
生涯最後の全霊をかけた仕事の結末ははたしてどちらだったんだろうか。』
老女の表情は沈んだように何の感情をも浮かべない。
「オープン・エンディングですが、九割はその相手を犯人と確信したような結末でした。作中はどうあれ、彼の中ではもう真犯人だと定めていたのでしょう。叔父は実在の人物に思わぬ迷惑をかけるかもしれないという恐れを知りつつ、作家としての承認欲求からセンセーショナル話題作をものにするという誘惑に勝てなくなってしまっていたのです。そうして、最終回が発表された暁にはまず間違いなくモデルになった「相手」は特定されて、今は普通の一般人として暮らすその「女性」が世に知られることになるだろうということをわかりつつ、それをやり抜こうと決意したのでしょう。
「彼は万が一のことを考え、僕に最終回の仮原稿と取材メモの写しをあらかじめ託し、実際の会見の後に手を加えて決定稿を仕上げようと思っていました。でも、その原稿を完成せる前に、漏電が原因の火事で落命してしまった。でも僕だけはあらかじめ最後の計画を聞いていたので、会見した「女性」が何らかの手を講じて火事を仕組んだのではないか、とすっかり怯えてしまったのです。
「叔父は僕がこの「最終回」を公にして彼自身の命を代償にした遺作を完成させることを期待していたのだと思います。それが、あのタイミングで叔父が火災で落命してしまったことに僕はすっかり怯え、託された最終回のプレ原稿や資料をを公にすることなく、「真犯人」の目から逃れるように生きてきたのです。
「怖かったんです」
青年はしばらく言葉を切り、老女の様子を見て再び話し始めた。
「僕もだいぶ歳を重ね、人生の意味などを考えることが多くなってきました。そしてどうしても知りたいことが頭をもたげてきたのです。冷静に考えて、疑問が残る……
「叔父の推理は果たして正しかったのかどうか。つまり……
「『連続殺人事件の真犯人は本当に「その相手」だったのか』そして『叔父が落命した火災は本当に事故だったのか、それとも口封じに仕組まれたものだったのか』
「今なら叔父が自分の命を賭して対面に及んだ気持ちがわかります。人間には「どうしても知りたい」という欲望が芽生えることがあるのです。謎を謎のままにしておけない、強烈な衝動が。それに抗うのは至難の技なんです。僕はどうしても知りたい。
「もともと叔父はこの作品で現実には迷宮入りした事件を彼なりの真相解明を行うというつもりでしたが、連載と並行して取材を続けるうちに、どうやらその生存者の少女の現状に突き当たってしまったそうなんです。
「叔父が実際にその女性と会ったらしいことまでは分かっています。あの事件で数少ない生存者の一人、当時は未成年だった一人の少女。単なる事件に巻き込まれたそのほか大勢の一人の筈だったこの少女が、実は「恐るべき天才」、驚異の頭脳の持ち主だった……その娘こそがあの連続殺人事件の真犯人だった、という見立てをしていたのです。僕に託したものの中に、紛れもなくその人の名前が書かれてあったのです。
「そして、こればかりは最早、その「当人」に確かめるほかはない。もちろん、相手が本当のことを言うかどうかは分かりません、本当に犯人ならばとてつもなく危険なのは分かっています。でも尋ねずにはいられないんです。その日、何が話されたのか。結局叔父が抱いていたのは全て妄想だったのか」
青年は老女に思い詰めたように語り終えた。
そして相手の反応を待った。
老女は青年の目を見つめ返して、感情を測りかねる表情のまま口を開いた。
「あなたは、つまり、わたしがその人物だと思ってらっしゃって……」
それで……、と言葉をつなげようと思って老女は口を止めた。
期待に満ちた青年の目は大きくひらかれたけれど、異変に気がついた
「そんな」
老女は目を開いたまま全身から力が抜けていくようにベンチから崩れた、彼女の秘めていた「爆弾」が今、まさに破裂した。
とっさに彼女を支えた青年は周囲に向け大声を上げた。
「すみません、誰か!救急車をお願いします!誰か!」
老女の目が青年をとらえて、唇が何かを伝えようと震えている。
「なんですか、何が言いたいんですか」
青年が耳を口に寄せた。
そうして老女は最後の言葉を青年に伝え……
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『三田山家一族 完結編』 最終回 了
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