第31話 春はここにあった。

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 五本の赤のラインの入った機体が、空高く飛び去って行く。しばらくその飛行機雲は、青い青い空から消える気配はなかった。 「行っちゃったね」  歌姫は落とした帽子をかぶり直しながら、つぶやいた。俺はああ、と短く答えた。 「本当に、いいの? …彼女は」 「いいさ。彼女は強いんだ」  無論彼女には彼女なりにそれを支えるものは欲しいはずだが… それは俺である必要は無いのだ。 「彼女は、強いんだよ」 「そうみたいだね。俺かなり怖かった」 「…お前も、かなり怖かったけどな」  そう? と奴は肩をすくめ、ゆらゆらと揺れる巨大な蔓や葉に向かって、すりすりと顔を寄せる。 「ごめんな、眠っていたとこ、起こしてしまって」 「眠っていた?」  俺は思わず奴に問いかけていた。 「この雪の下にさ、たくさんの何か生き物が居るからさ、ちょっと助けてもらおうと思って呼びかけたんだ。そしたら彼らが出てきた」 「出てきた、って… これ植物じゃ」 「何言ってんの、これの何処が植物なのさ」  こだわりの無い奴はこれだから怖い。ああそうか、と俺はやっと気付いた。  これが、デザイアだ。端末の言った、植物の形をした不定形生物。端末達コンビュータの、メカニクルの同類。 「…ああそう、また眠るんだ。ありがとう。お休み…」  歌姫の言葉に応えるように、するするとまた、デザイア達は雪の下にもぐっていく。そして春が来るまで、また眠るのだろう。…ああ全く。  帰ろうか、と俺は歌姫の背を叩いた。  痛い、と奴は抗議の声を上げた。  ざくざく、と再び雪の音が耳に届く。リズミカルなその調子に気を取られていると、不意に歌姫がこちらを向いた。 「…そーいえばさ、お前、チュ・ミンって名なんだよな」 「へ?」 「名前。お前の名、そういえば、俺ずっと聞いてなかった」 「そうだったっけ」 「そうだよ」  そう言えば、そうだった。別に言う必要もなかったからだと思うが、無くても平気だったことも事実だ。 「変な名だな」 「うるさいよ。これでもちゃんと親が意味を考えてつけたんだからな。祖先の国の言葉でちゃんと書けるんだからな」 「俺だってそうだよ。言葉がどうだか知らないけどさ、生んでくれたひとがつけたんだ。ハリエットって言うんだ」 「ハリエット?」  結構意外な名だ、と思った。だがその響きには、確かに男とも女ともしれないものがある。 「みんなはハリーとかハルとか呼んでた」 「ハル?」 「短いほうが呼びやすいだろ? 何か変か?」 「いや…」  俺は思わず苦笑する。そしてその苦笑は、次第に大きな笑い声へと変わって行った。 「…何だよ一体… そんなにおかしいかよ」 「…や、すまんすまん… けどなあ」 「だから何だよっ」 「…お前、春を探しに行こうって言ったよな」 「言ったよ」 「それなあ、その音。ハルって、あの失われた国の言葉で、春を意味するんだよ」  奴は足を止めた。 「…ホント?」 「本当。お前にここで嘘ついてどーすんだよ」  奴の顔がさっと染まる。それは最初に会ったあたりに、奴が言った言葉だ。俺はそんな奴の手を取って言う。 「ほら、春は、ここにあった」  奴の顔はますます赤くなる。そしてうめくような声で言う。 「お前言ってて恥ずかしくないか?」  ふふん、と俺は口元に笑いを浮かべると、奴の手をぐいっと引っ張り、そのまま肩に担ぎ上げた。 「何やってんだよ、下ろせってばっ!!」  わめけわめけ。俺はこいつを離す気はなかった。  端末は俺に言った。  それに、あなた達は増えませんから。   増えないから、彼らは俺達を見逃してくれるだろう。  この惑星の上で生きてくことを。お前の故郷での欠点は、ここでは美点だ。  でもまあ、そんなことはどうでもいい。  そして俺は言った。 「ほら行くぞ、ハル」
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