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 書き置きもなかった。すぐに娘の洋子に電話をかけた。 「洋子のところに来てないのか?」 「いないわよ。なんかあったの?」 「うん、いや、なんでもない……」 「子どもじゃないんだし、いちいちお父さんに言わないで出かけることもあるでしょ」 「まあ、そうか……じゃあ洋子に連絡あったらお父さんに教えてくれ」 「はいはい」  娘と話してすこし落ち着いたが、夜のうちに謝っておけばよかったと後悔した。  腹がぐうと鳴った。  いつもなら聡子が用意してくれた朝食を食べている時間だが、今朝は何もない。  あまり気にしていなかったが、聡子は毎朝シリアルに牛乳をかけて食べていた。自分の分はご飯とお惣菜と味噌汁だ。オレの分をわざわざ作ってくれていたのか……。  ご飯も炊いてないし仕方なくシリアルを食べてみたが、猫の餌を食ってるようで味気なく、半分残して流しに捨てた。  リビングテーブルの前に腰をおろしてテレビをつけると、朝のワイドショーをやっていた。熱中症対策をぼおっと見ていたが何かが足りない。そうか、普段は聡子がコーヒーを出してくれていた。いつもは豆を挽く音がうるさいと思っていたが、そうした音も妻が家事をする音も気配もない朝は、妙に静かだった。  コーヒーでも淹れるかと腰をあげ、キッチンのコーヒーメーカーに目をやったが、使い方がわからない。そもそも豆はどこにあるんだ? 薄茶色の紙もいるよなと、扉を開けて探してみるも見当たらない。結局コーヒーはあきらめて自室に戻った。  聡子が指摘したとおり、積読(つんどく)が山積みになっていた。イーゼルに置いた描きかけの水彩画は台紙が乾燥してたわんでいる。我ながらこれほど根気がなかったのかと、ため息が漏れた。  そもそも読書も水彩画も、本当にやりたくて始めたわけではなかった。  村重が勤めていた自動車メーカーには社内報があり、四半期に一回発行している。社内報には定年退職者の特集ページがあり、対象者があらかじめ簡単なアンケートに答え、その結果が顔写真と入社年と共に掲載される。 〈退職後のセカンドライフでやりたいことは?〉の問いに対して、 〈やりたいことは沢山ありますが、まずは読書と絵画に挑戦したい〉と答えたのだ。  本音を言えば、このときは具体的なプランは無かった。ただ回答の締め切りもあり見栄もあって、読書と水彩画と答えただけだった。  本棚から一冊のファイルを取り出して、机の上に広げて置いた。退職した年の社内報と部下から貰った寄せ書きがファイルしてある。新卒で入社して三十八年、人生の半分以上を会社に捧げてきた。日本を代表する自動車メーカーの事務方として部長の職を全うできた。山登りにたとえれば、会社員として、一度頂きに登った自負がある。寄せ書きにも、 〈村重さんのような管理職を目標にします。寂しいですが、ありがとうございました。〉 〈定年退職、おめでとうございます。また、どこかでお会いできる日を楽しみにしております。〉  など、感謝の言葉が並んでいる。失敗もあったが、おおむねは大過なく過ごせた。それが半年たった今は……。  充実していた日々と比べてしまえば虚しくなるだけで、村重はファイルを閉じて本棚にしまった。
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