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 カウンターに並んで座り、生ビールで乾杯した。  鈴木が珍しいものでも見つけたような目で店内を見まわしている。 「このお店前から気になってたんです。夕方になると焼き鳥の煙がもくもく流れてて、何度匂いに足を止めたことか。この(すす)けた感じ、味がありますねえ」  鈴木は嬉しそうにジョッキを傾けた。 「ウチは家内が飲めないので、家内誘うわけにもいかなくて。かといって一人で飲むほどのお酒好きでもないので。村重さんの奥様はイケる方ですか?」 「ええ、妻は下戸(げこ)じゃないので多少は……」  とは言え、二人で飲みに行ったのはいつだろう。思い出せなかった 「そういえば今日、教室の帰りなんですよ。なのでお会いできて良かったです」 「あっ、そうでしたね……」  今日は水曜日だったのかと思った。退職してから曜日感覚が薄れている。 「秋に教室主催の個展があるので、最近はその制作に一生懸命ですよ」  鈴木は足元のトートバッグからスケッチブックを取り出すと、開いて見せた。 「まだどれもラフなんですが、どれを出展しようかと……」 「ちょっと拝見していいですか?」  村重は一枚ずつ目を落として驚いた、というか、少しショックを受けた。  鈴木と自分は同じ時期にクラスメイトになった。年は鈴木の方が五つ上だが、お互いに定年退職組で、ほんのりと同期意識があった。お互いに絵心がなく初心者だったが、先生は、村重さんは筋がいいですねと褒めてくれていた。ところが、鈴木の水彩画は格段に上達していたのだ。 「すごいじゃないですか……どれもお上手ですよ……」  差をつけられたショックで、ありきたりの言葉しか出ない。 「いえいえ、まだまだですよ。もっとこう、頭の中のイメージをそのままキャンバスに描き写すにはどうしたものかと、試行錯誤の日々です」  鈴木の絵からは試行錯誤の跡が窺えた。それに引き換えオレはと、つい比べてしまい、顔が引きつりそうになった。 「鈴木さんはどういったきっかけで絵を始めたんですか?」 「私は仕事人間で無趣味だったのですが、家内に写真の趣味がありまして」 「ほう……」 「おもに風景の写真で、そのために撮影旅行に行ったりしてます。そうですね……」  鈴木がスマートフォンを開いて写真フォルダを見せてくれた。雲海のなかに墨絵のような山々が連なっている。宮崎の高千穂ですと、鈴木が言葉を添えた。 「……これ、奥様が? これは綺麗ですね、神々しいというか……」 「ありがとうございます。私は自分もこうした風景に身を置いてみたいと思って、定年後撮影に着いて行ったんです。そこで美しさに感動して、この静謐(せいひつ)な雰囲気を記憶以外にも留めたいと思いまして、その答えが水彩画だった。そうしたわけです」  鈴木は照れたように笑った。 「じゃあ鈴木さんは、奥様とよく旅行に行かれるんですね」 「ええ、月に一回ほどですが、眺望が良い場所を二人で探して行きます。どうしても山が多くなるので、この歳で登山もするようになりました。登山も家内の方が先輩なので色々教えてもらいながらですが」 「なるほど、登山も。運動にもなって水彩画の素材にもなるし理に叶ってますね」 「はい、今までも山あり谷ありでしたが、第二の人生も山あり谷ありです、ハハッ」  ほがらかに笑う鈴木がうらやましかった。
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