少しだけの血

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 思い出して口にした。     わたしがもっと若かった頃、就職してから少し経験を積んで配属された重度障害児童の施設。案内する上司の手にはたくさんの鍵が重たそうにひとつのキーホルダーに纏められてぶら下がり、歩く度ジャラジャラと鈍く発声していた。何故だかわたしはその窮屈そうに揺れる様だけ見て、その小さなリズムに身を委ねて放心していた。  何事か声を掛けられおそらく「はい」と答えたんだと思う。扉が開くとその先に、美しい日常がまるでアメンボが跳ねたみたいに無音で視覚だけに訴える変化を人知れずするみたいな瞬間が、切り取られるでもなく続くわけでもないみたいにわたしの頭脳に直接的な信号みたいに視線を釘付けた。  そう。跳ねていたの。  ピョーン、ピョーン、と、嘘みたいに高くゆっくり、嬉しそうなあの子の綺麗なしろい顔がみるみる弾みながらわたしに向かってまっすぐ近付いて来る。  動けなかった。脳が痺れたみたいにぼーっとして、わたしはうっとり、ただ彼を抱き締める為の胸を逸らせないでいた。スローモーションな刹那。ようくんはわたしの肩にがぶり噛みついた。まるで容赦をしらない、食べてしまいたい愛情。  何も感じない。  上司が慌ててようくんをわたしから引き剥がして思い切り突き飛ばす。示されゆっくり視線を泳がせたわたしの左肩、しろいブラウスにどんどん滲む血を見て音声と痛覚が蘇る。怒号、がやがや、鈍痛。それから、また少しの出血。突き飛ばされたようくんはへたりこんで、それでもあの綺麗な笑顔でわたしを見て言った。 「おかあちゃん」 「おい!離れろ!」上司の声。閉じられ施錠された扉、傷の手当て。 「俺が居て、すまない。歯型、残るかな?」 「わたし、歓迎されなかったのでしょうか?」 「あれは嫌いだからじゃない。逆だよ」 「そうですか」 「そういえばあの子の母親に、君は少し似た雰囲気がある。気休めとか責任逃れじゃなくて」  わたしは何も答えなかった。  じんじん痛む傷と少しの出血。それから「感情の抑制が出来ないから、気をつけて」と手渡されたあの鍵の束は、見た目より重くなかった。  あれがわたしが家族以外の男性から初めて「ほんとうに愛された」一瞬で、次に会った時からお別れまでようくんはそれをわたしに向ける事はなかった。歯型の痛みは数日で消えた。  それでもその傷跡はわたしの左肩に刻まれて今も消えないし、あの血の色はずっと忘れない。  若いわたしにはわからなかったけど、あなたに出会ってから理解した気がする。愛とは血肉の交換で、それを誰かに向けるのも受け入れるのもわたしたちの生活の中ではとても難しいし、だからわたしたちはそれを探すんだって。   「きみが小説書いたら良い。酷く文学的だし、今の語り口はすごく優しかった。僕にはそんな風に書けやしないよ」  ベッドであなたの横顔から視線を外してぼーっと仄暗い天井を眺めながら夢見るみたいに思い出していたわたしから離れて身体を起こし、離れた部屋の隅であなたが火を点けた煙草の煙の微かなにおいに鼻腔をくすぐられるともうまたあなたが欲しかった。
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