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第2話 窃盗団のアジト
風に吹かれてさわさわと揺れる葉の音だけが夜の中に響いていた。それは日常的でありながら、なにか不吉な事件の始まりを予感させるような音でもあった。その音の向こうには満月がぼっかりと無言で浮かんでおり、周囲にうっすらとまとわりつく雲にその妖艶な光をじわりと滲ませている。
ドン、ドン、ドン。
そこへドアを粗雑にノックする音が響いた。木造二階建ての一軒家の水色にペイントされた玄関ドアの前にチャニが立っていた。白いTシャツの上にカーキ色のミリタリージャケットを羽織り、手にはジョニーウォーカーの入った布袋を提げている。そのドアの脇には白い光を放つライトが取り付けられ、そこに一匹の蛾が鱗粉を撒き散らしながらコツコツと体当たりを繰り返している。その先の鉄格子の取り付けられた窓からは明かりとテレビの音が微かに漏れていた。
しばらく待ってみたが、応答はなかった。チャニはドアの中央に取り付けられた覗き穴に目を近づける。もちろんそこから中の様子が見えるわけはないのだが、それでもドアの向こう側に人の気配を感じ取ることはできた。
「おう、俺だ。チャニだ」
大声で言った。それでようやくドアが開き、その隙間からカタイが顔を覗かせた。少し野暮な印象の太い眉毛をしているが、その目付きは鋭い。短くカットした髪の毛をジェルで立たせており、ペイズリー柄のグレイのシャツの胸元には金のネックレスが覗いていた。
「どうした、こんな時間に」
「ちょっと近くまで寄ったもんでな。いっしょに酒でもどうだ」
チャニはそう言うと、布袋から黒い箱に入ったジョニーウォーカーを取り出し、彼の目の前に見せる。
「一応はここの留守を守るという任務の最中なんだがな」
「少しくらい付き合えよ」
カタイはふんッと鼻を鳴らしてからくいと顎をしゃくり、中に入るよう促した。
白を基調とした広々としたリビングにソファセット、大型の液晶テレビ、木製の古時計の置かれた棚、クローゼット……などが整然と並んでいた。チャニがソファに腰を下ろすと、カタイはキッチンから二杯のグラスと氷のぎっしり詰まったアイスペールを持ってきてガラスのテーブルに置く。そしてチャニの斜め向かいに座った。
テレビはムエタイの試合を放映していた。カタイはそれをちらちらと観ながら氷をトングで摘んでグラスに入れていく。筋骨隆々のムエタイ選手二人がリング中央で激しい打撃の応酬を繰り広げていた。
チャニはウイスキーのボトルの蓋をパキリと開けてグラスに注いだ。琥珀色の液体が氷を滑り落ちてグラスの底に貯まっていく。
「おまえはどっちの選手を応援しているんだ?」
注ぎながらカタイに訊いた。が、彼はなにも答えない。ムエタイの試合に夢中になっているのだ。チャニはシャツの左のシャツの袖口に指を差し込んだ。
「そういえば、ボスから話は聞いたか?」
ふいにカタイがそう言ってチャニのほうに顔を向けてきた。チャニは掌をボリボリと掻いてその動きを誤魔化し、平然を装って応じる。
「なにをだ?」
「宝石のはめ込まれた鉄細工のことだ。ボスの見立てによると、とんでもない高値が付くらしいってよ」
「へッ、ボスの見立てなんてまったく当てになるものか。前にも、戦利品の龍の置き物が百万バーツになるなんて言ってたが、あれだってたったの百バーツにしかならなかったじゃないか」
「まあ、たしかに……」
カタイは苦笑いをこぼして視線をテレビのほうに戻した。
「で、おまえはどっちを応援している? 赤いパンツのほうか?」
「どっちもパンツは赤だろ。黙って観とけ」
チャニはもう一杯のグラスにもウイスキーを注いでいく。その最中、カタイを横目で警戒しながら再びジャケットの袖口に指を差し込み、そこに仕込んであった白い粉末を親指と人差し指の間に摘んだ。そしてそれをウイスキーの中にさっと素早く入れる。その微細な白色はゆらゆらと沈んでいき、ウイスキーの琥珀色に同化するようにしてスッと消えた。
カタイはそれにまったく気付く様子もなかった。チャイは二杯のグラスをカチンと合わせ、そのうちの一杯をカタイの前に置いた。
「ほら、飲めよ」
「ああ……」
カタイはテレビに視線を置いたまま生返事をする。チャニはウイスキーのロックをちびりと舐めるようにして飲む。
しばらくしてカタイが「おおッ!」と声をあげてソファから立ち上がった。テレビ画面の中でひとりの選手がリングに仰向けに倒れ、もうひとりがグローブをはめた片方の手を高く掲げていた。
「おい、見たか! 今のハイキック一閃!」
チャニはその瞬間を見ていなかったのだが、適当に話を合わせて答える。
「ああ、見た、見た。あんなのをもらったらひとたまりもないな」
「こいつならやってくれると信じてたぜ」
カタイはそう言って機嫌よさそうにソファに座りなおす。そしてテーブルの上のグラスを掴んでグビリと飲んだ。
薬の効果が現れはじめたのは三十分ほど経ってからだった。
「だからよ、ムエタイってのは間合いの取り方がなによりも大事で……」
カタイはムエタイの試合の放映が終わると、独自のムエタイ理論について語りはじめていた。そしてその最中、こくりこくりと舟をこぎはじめる。
「間合いがなんだって?」
「ん。ああ、間合いが……」
彼はその言葉を途中でソファにゴロンと仰向けに倒れた。手に持っていたグラスは床に落ちてガシャンと割れる。
「おい、カタイ。大丈夫か。しっかりしろ」
カタイの頬をペシペシと軽く叩くが、彼は目を閉じたままなんの反応もなかった。
チャニはソファから離れ、クローゼットの両開きの扉を開いた。シャツが何着もハンガーに吊るされているが、これらはただのクローゼットに見せるためのカモフラージュである。底板に手をかけるとガコッと外れ、その下から地下へと通じる階段が現れた。その急角度の階段を一段ずつ慎重に下りていった。
真っ暗な空間。手探りで壁のスイッチを探して押すと、天井の裸電球がパッと灯った。コンクリート打ちっぱなしの床と壁がオレンジ色の光に照らされる。その物置程度の狭い室内の中央に木製のテーブルがあり、その上に指輪、ネックレス、金塊……などが無造作に置かれていた。
ここはチャニやカタイの所属する窃盗団のアジトだった。現金以外の盗品は組織のボスが足の付きにくいルートで金に代え、そのときの働きに応じて構成員に分配する。それまでは盗品をこの地下室に一時保管していた。
ネックレスなどをじゃらじゃらと掻き分けていくと、その下から黒味を帯びた丸い鉄板が現れた。日本刀の鍔のような形と大きさをしており、その中央にはうずらの卵ほどの大きさの青い宝石がはめ込まれている。
手に取って裸電球の光にかざした。チャニは宝石についてはそれなりに詳しいほうだったが、これがなんという種類の宝石なのかはわからなかった。サファイアの色味に似ているが、それよりもさらに澄んだ青に感じる。まるで海中から空を見上げているかのようで、じっと見つめているとそこに吸い込まれていくかのようだった。この宝石の横には日本語の文字でこう刻まれていた。
山田長政の富のかた この石に示さらん
裏面にひっくり返すと、そこには切り立った二つの山が描かれ、その麓のあたりにバツ印が刻まれている。
チャニはふふッと笑みを浮かべ、それをシャツの胸ポケットにしまった。これの本当の価値のわからない連中に絶対にこれを渡すわけにはいかなかった。
階段を上ってリビングに戻った。ソファのほうに目をやると、そこで寝ているはずのカタイの姿がなかった。
——え、どうして……。
嫌な予感が背中をぞわぞわと這い上っていく。その次の瞬間だった。
「チャニ。てめえ……」
背後からそのカタイの声とともに後頭部に硬いものが当てられた。間違いなく拳銃である。一晩ぐっすりと眠らせるくらいの量の睡眠薬を盛ったはずだが……。チャニは咄嗟に両手を挙げて言った。
「お、おい、待てって。そんな物騒なもの俺に向けるなよ」
「自分がなにをやったかわかってるのか」
「ただの冗談じゃないか」
「俺に薬を盛っといてなにが冗談だ、バカ野郎!」
「とにかく落ち着けって」
「地下室からなにを取った? 出せよ」
「俺は別になにも……」
「出せって言ってんだよ!」
「わかったよ。そう怒鳴るなって」
チャニは両手を挙げたまま上半身だけをゆっくり振り向かせる。そして彼の目を見てすぐに理解した。彼は本気だ。いつでも拳銃の引き金を引く覚悟ができている。額にはうっすらと血が滲んでいた。額を壁に何度も打ちつけて眠気を覚ましたのだろうか。どうやら彼の精神力を少しばかり侮っていたようである。
——ここはとりあえず……。
左手は挙げたまま、右手をシャツの胸ポケットに入れて鉄細工を取り出した。また上半身だけを振り向かせてそれをカタイに差し出した。
「ほらよ」
「やっぱりそれか」
しかし、カタイが手を伸ばしたところでそれはチャニの手からポロリとこぼれ落ちる。
「あ……」
それといっしょにカタイの視線も落ちた。
パン!
銃声が響いた。鉄細工がゴトンと床に落ちる鈍い音がそれに続く。拳銃はチャニの手に握られており、カタイは仰向けに床に倒れていた。血の滲んだその額の中央には小さな丸い穴が空いていた。
カタイが鉄細工が落ちるのに気を取られた瞬間、チャニは彼の手首を素早く捻って銃口を反対に向け、引き金を引いたのである。
白いタイルの床に赤い鮮血がじわじわと広がっていく。やがて床に落ちている鉄細工のほうにまで伸びていった。それはまるでカタイが死してもなお意志を持って鉄細工を取り戻そうとしているかのようにも見えた。
しかし、チャニはそれが血の中に捕らえられるにさっと拾い上げてジャケットの胸ポケットに戻す。そして目と口を半開きにしたままなにも物言わなくなったカタイの顔に向けて言った。
「おまえが悪いんだぜ。おとなしく寝てりゃあ死なずに済んだのになあ」
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