狡猾な男

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狡猾な男

「遅かったじゃねぇか」 「主さん、ごめんなんし。なにしろ、突然の呼び出しで、用意に時間がかかいんした」 「はは、一流の花魁なら、どんな呼び出しにも応じられるよう、用意しておくもんじゃねえのか」  くくくっと笑いながら、容赦なく神経を逆撫でしてくる男、越後屋の若旦那、宗介に、雛菊の臓腑が煮えくりかえる。しかし、ここで挑発に乗ってしまえば、この男の思う壺だ。冷静に対処しなければ、足元を掬われる。そんな予感が、目の前の男からは感じられるのだ。  笑いながらも、その目は眼光鋭くこちらを見据えている。まるで、絵巻物に出てくる獅子の前に放り出された獲物のような心境に、雛菊の背を得体の知れない恐怖が駆け登っていく。 「つっ立ってねぇで、座ったらどうだ、雛菊」  自分の隣の畳を、指先でトントンっと叩いた宗介の仕草に、雛菊の喉がゴクリと鳴る。怖気付いている場合ではない。目の前の男がどんな要求をしてくるかはわからない。ただ、雛菊もまた、様々な修羅場を身ひとつで乗り越えてきた。男ひとり、いなせないようでは花魁の名がすたる。  腹に力を込め、気合を入れ直すとスッと近づき、何も言わずに宗介の隣へと腰を下ろした。そんな雛菊の行動に隣に座る男が笑う。 「くくく、とって喰やぁしねぇよ。そんな、警戒すんな」  座布団一つ分空いた雛菊との距離に、宗介が心底おかしいと言わんばかりに笑う。しかし、そんな宗介の挑発に乗るような雛菊ではない。  宗介の挑発を無視して、袂から取り出した煙管(キセル)に火をつけ、吸い出す。雛菊が持つ煙管は、遊女が持つにしては短いものだ。これもすべては、自分の身を守るため。  本来であれば、客の許可もなく二人だけの酒の席で、煙管に火をつけることは無作法とされている。ただ、自分の身を守るために、煙管は有効な手段の一つだった。火のついた煙管を持つ女を襲おうと考える男はまずいない。だからこそ、雛菊は短い煙管を愛用していたのだ。どこへでも持って行けるように。 「客に酌もせず、ひとり煙管を楽しむたぁ、無作法な花魁だなぁ」 「なにを言いんすか。先に、吉原の作法を破りんしたのは、主さんではありんせんか」 「はは、確かにな」  そう言ったっきり、宗介は言葉を発しなくなった。  雛菊が煙管の灰を落とすトントンっという音と、手酌で酒を呑む宗介の徳利をお膳へと戻すカタっという音だけが小さな部屋へと響く、静かな時間が流れていく。  盃片手に、手酌で酒を飲む姿ですら、様になる男などそうそういない。まるで、自分の家でくつろいで居るかのような姿に、宗介の様子を横目に盗み見ていた雛菊の心も凪いでいく。 「なぁ、雛菊。俺が悪かった。手酌じゃ、つまらねぇ。相手してくんねぇか」  今までの無礼な言葉遣いが嘘だったかのように、殊勝な態度に転じた宗介に、雛菊も大人気なかったと反省する。煙管の灰を落とし、火を消す。 (ここで意地を張っていても仕方ありんせん)  座布団一つ分空いた距離を宗介の方へとにじり寄ると、お膳へと置かれた徳利を手に持つ。差し出された盃に酒を注いだ時だった。こちらへと体勢を向けた宗介に強い力で肩を押され、気づいた時には格子模様の天井を見上げていた。
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