馴染みの盃

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 徳利をお膳へと戻すカタッという音が静かな部屋に響き消え、わずかに開いた障子窓から時折り吹き込む風が、雛菊の乱れた髪を揺らす。心地よい沈黙が走り続ける心臓をなだめてくれた。  雛菊はゆっくりと視線を動かし、(さかずき)に口をつけ、くいっと酒を飲み干す宗介をみやる。視線に気づいた宗介が空の盃を差し出しても雛菊はもう意地をはらなかった。  徳利を手に持ち差し出された盃に酒を注ぐ。朱色の盃に注がれた酒が行燈の灯に照らされユラユラと揺れる。その幻想的なゆらめきに雛菊の身体もフワフワとゆらめく。 (あちき……、どうしちまったのさ)  一口も酒を口にしていないのに酔ってしまったかのように頭が回らない。注がれた酒を宗介がいっきに飲み干す様を、ただただ見つめることしか出来ない雛菊の手に空の盃が手渡され、徳利が奪われる。 「おめぇも、飲むだろう?」 「……あい」  雛菊は、その盃の意味することを理解していなかった。いいや、宗介の色香に当てられ理解できなくなっていたのだ。  朱色の盃になみなみと注がれた酒が行燈の灯に照らされユラユラとゆれる。ゆっくりと唇を盃の縁へとつけ酒を飲み干した時、宗介の発した言葉に雛菊は空になった盃を落とした。 「雛菊……、やっとおめぇを手に入れた」 「えっ……」 「これで、俺は『馴染み』ってわけだ」  行燈に照らされた宗介の顔が悪戯そうに歪む。ニッと笑んだ宗介の口元をぼんやりと見ていた雛菊が、畳へと転がった盃へと視線を落とした時、やっと彼女は宗介の言葉の意味を理解した。  三三九度――、遊女と客が同じ盃で酒を交わす行為は擬似結婚を意味する。本来であれば、二度目の宴席『裏』で交わされる三三九度を二人きりの宴席で仕掛けてくるとは想像だにしていなかった。いいや、『裏』を飛ばして、『馴染み』になろうとするような型破りな客に、吉原の常識は通用しない。宗介の色香に当てられ、油断した雛菊の落ち度だ。 「卑怯でありんす!! こんな騙すように盃を渡すなんて! 帰りんす!!」  まだ、間に合う。ここにいるのは宗介だけ。  馴染みの盃を交わしたことが露見しなければ、言い逃れはできる。  雛菊は状況を打破するため、怒りも顕に立ち上がる。しかし、そんな雛菊の焦りを読んでいたのか宗介が追い討ちをかけた。 「はは、遊女と客の駆け引きは、廓遊びの醍醐味だろ。己の落ち度を客になすりつけ逃げようなんざ、雛菊花魁は虚勢だけの腰抜けだったってわけか」 「――っな!? 帰りんせん!!」  売り言葉に買い言葉。宗介の馬鹿にしたような物言いに神経を逆撫でされた雛菊は、腰をドカっと座布団へ下ろし、『ふんっ』とそっぽを向く。宗介相手だと、子供じみた態度しか取れぬ自分自身にも腹が立ち、雛菊の目にうっすら涙が浮かんだ。 (こんな男のために泣いてやるもんか!)
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