馴染みの盃

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『遊女の涙は金子の涙。無礼な男のためにびた一文、金子の涙は流さない』と弱気になる心を叱咤し、溢れそうになる涙をこらえ雛菊は隣で悠々と酒を飲み続ける宗介を睨みつけた。そして、身体ごと宗介の方へと顔を向けた雛菊は、背を正し深々と頭を下げた。 「主さん、申し訳ありんせん。あちきが卑怯でありんした」 「くくく、なんだおめぇも非を認めるんか。なら、今日から俺はおめぇの『馴染み』って認めんだな」 「えぇえぇ、認めますとも。今日から主さんは雛菊花魁の『馴染み』でありんす」 「そうかい、そうかい」 「ただし――、馴染みを床に入れるかは花魁次第。そこんとこ、忘れねぇでおくんなんし」  スッと立ち上がった雛菊の目に唖然とこちらを見つめる宗介の間抜け面が映る。その面を見下ろし溜飲を下げた雛菊は着物の裾を翻し、退席するために歩き出した。しかし、数歩も歩かぬうちに強い力で肩を引き寄せられた雛菊は、宗介に後ろから歯がいじめにされ身動きが取れなくなる。 「主さん、離しなんし!?」 「いいや、放さねぇ。雛菊、このまま聞けや」  宗介の怒気を孕んだ声に、雛菊の喉がヒュっと鳴る。力の差は歴然。抵抗したところで、男が本気になれば逃げられるはずもない。突如襲ってきた恐怖から雛菊の歯がガタガタと鳴り出す。 「約束は守る。襲ったりはしねぇから……、話を聞いてくれ」 「こんな状態で、話なんて聞けんせん」 「あぁ、わかった。逃げないと約束すんなら、放す」  さっきまで放っていた怒気を収め、耳元で響く弱々しい声に雛菊の心が揺れる。その追いすがるような声に心が囚われて離れない。 「わかりんした。逃げんせんから……、離しなんし」  抱かれた身体が、ぎゅっと強く抱きしめられ離れていく。離れていく温もりにわずかな寂しさを感じ、落ちた手を握られ感じた温もりに心がキュッとなる。己の心情の変化に雛菊の頭はついていけない。  何がなんだかわからぬまま、宗介に手を引かれ元居た座布団へと座った雛菊の隣へと、宗介もまた胡座をかく。 「なぁ、雛菊……、俺と契約を交わさねぇか?」 「――――、はっ? 契約でありんすか?」  予想だにしない言葉に思わず宗介の顔をふり仰いだ雛菊は、彼の顔に浮かぶ無邪気な笑みに心がどうしようもなく囚われていくのを認めるしかなかった。
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