忘れられない人

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忘れられない人

「水揚げ前の花魁じゃあるまいし……」  宗介と『馴染み』の盃を交わしてから数日、私室を埋め尽くす贈り物の数々に雛菊は欄干の縁に腰掛けため息をこぼした。  黒地に金の蝶が舞う打ち掛けが今も雛菊の目の端に入る。あの打ち掛けに、織りも見事な帯を合わせたらさぞかし豪華な仕上がりになることだろう。金糸の蝶が舞う黒打ち掛けに花の川が流れる帯を重ね仲見世通りを練り歩けば夜桜にも負けない華が出来上がる。翌日の瓦版は、情を売らない花魁が春を散らされたと名打たれ飛ぶように売れる。 「早まりんしたかねぇ……」  盃を交わした夜、宗介から提案されたのは『馴染み』を偽装すること。良くも悪くも話題をかっさらった者がもてはやされる吉原遊廓において、情を売らない花魁を落としたとなれば、それは即ち『旦那』としての格がさらに上がったと同じだ。そして、雛菊が宗介に呼ばれ引き手茶屋へ道中すればするほど、雛菊が着る打ち掛けや帯、装飾品は注目の的となる。花魁の装いは流行の最先端。雛菊が注目を浴びれば浴びるほど、宗介の大店は儲かるという寸法だ。  好きでもない男の床に入らずにすむ。そう考えれば、宗介からの提案は雛菊にとっても悪い話ではなかった。しかし、釈然としない。  年季明けまであと五年。筆頭馴染みの紀伊国屋の大旦那もいつまで通ってくれるかもわからない。  雛菊は、皺の刻まれた好々爺を脳裏に浮かべ手を合わせる。  雛菊の『水揚げ』を買って出てくれた時からの古い付き合いだ。死んだ孫娘にそっくりだと言い、『孫娘の春を若造なんぞに奪わせん』と雛菊の水揚げに前代未聞の大金を積んだのは、今でも吉原に受け継がれる逸話の一つだ。  大旦那に変わる大金を落としてくれる『馴染み』を獲得しなければ、このまま『春』を売らずに吉原で生き残るのは難しい。だからこそ、宗介の提案にのってしまった。あの吉原一の遊び人の甘言に。 「いやだ、いやだ……、こんな部屋にいるから気が滅入りんす」  宗介からの贈り物で埋め尽くされた部屋をぐるっと見回し雛菊は欄干から立ち上がる。鏡台の上に置かれた黒漆の箱の中には、蝶を模った見事な鼈甲の簪が入っている。 (そういえば……、銀の簪はのうござりんしたねぇ)  雛菊は決して銀の簪をささない。大切な人を傷つけた銀の簪だけはささないと心に誓っている。しかし、その事を知る者は誰もいない。 「偶然……、主さんが銀の簪を贈ってこないのはただの偶然でありんす」  心に引っかかた何かを振り払うように雛菊は黒漆の箱から視線を外し、足速に私室を出る。階下からは昼見世に出る遊女の賑やかな声や、若い衆がバタバタと走り回る雑多な音が聴こえてくる。 (一人でいるから奴の顔なんざ思い出しんす。気晴らしに、菓子屋にでも行きんしょうかしら)
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