散ってしまえ夜桜よ

2/2
前へ
/49ページ
次へ
 どこの世に、吉原に囚われた遊女をひょいっと大門外へ連れ出せる男がいるのか。  雛菊は、今夜起こった前代未聞の出来事を反芻し頭を抱えていた。宗介という男はどこまでも型破りな男だ。本来であれば遊女を吉原の外に連れ出すには様々な手続きと数ヶ月前からの根回しが必要になる。思い立ったら吉日とばかりに連れ出せるものではないのだ。しかも、今雛菊が乗っているのは隅田川を流れる屋形船の中。己の置かれている状況が飲み込めず、雛菊は呆然と畳の上へと座るしかなかった。 「おい、なに呆けてんだ」  雛菊の隣に陣取り手酌で酒を飲み始めた宗介が悪戯そうな笑みを雛菊へと向ける。 「主さん……、なんてことを……」 「はぁ、別に大したことねぇだろ」 「そう言ったって、ここは吉原の外でありんす」 「まぁ、そうだな。隅田の川の上だ。なんだおめぇ、俺と逃げたと思われんのが怖ぇのか?」  くくく、と可笑しそうに笑う宗介の飄々とした態度に雛菊の頭に血がのぼる。 「そうは、言ってんせん!!」  宗介が遣り手婆に大金を握らせているところを見た時点で、玉屋の誰も雛菊が逃げたと思わないことくらいわかっている。雛菊が驚いているのは、大門の人の出入りを見張る番人をすでに買収していた事実だ。遊女の逃亡を見張る番人は、ことさら女の出入りには厳しい。ちょっとやそっとの金で……、いいや金子を積まれようが、買収出来る相手ではないのだ。それをいとも簡単に宗介という男はやってのけた。 (なんてお人なの……)  宗介という男の吉原遊廓における影響力は雛菊が想像する以上に大きいのかもしれない。吉原一の遊び人は、ただの遊び人ではない。そんな予感が雛菊の背をふるわす。 「まぁ、そんな事はどうでもいい。なぁ雛菊、これでおめぇの嫌ぇな桜は見えなくなった。ほらっ……、笑ってくれねぇか?」 「あっ……」  スッと伸びてきた無骨な手に顎をつかまれ、指先で唇をなぞられる。その仕草があまりに優しくて雛菊はそっと宗介から視線をそらす。 「よ、よしてくんなんし」 「笑ってくれ、雛菊。おめぇが辛そうな顔すると俺も辛ぇんだ。 ……なぁ、何があった?」  宗介の問いに雛菊の脳裏に銀次の顔が浮かぶ。 (銀さん……、あちきが春を捨てていたら、一人の女としてみてくれんしたか?)  切なそうに歪められた宗介の顔が、恋しい人の顔と重なる。 (銀さん……、春を捨てたら、今みたいな顔してあちきをみてくれんすか?) 「主さん……、あちきを抱いておくんなんし」  雛菊は自らの意思で宗介の口に口を寄せ、吸った。
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!

176人が本棚に入れています
本棚に追加