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「雛菊よ、お前の身請け先が決まったよ」
吉原遊郭でも一二を争う大見世『玉屋』の楼主、権左衛門に呼び出された雛菊は、おもむろに切り出された身請け話に、息をのんだ。
「おっとさん、冗談はよしてくんなんし。あちきは、玉屋一の花魁でありんす。いくら金子を積まれようが、身請け話を受けるつもりは、ありんせん」
「そうは言ってくれるな、雛菊。お前も、二十五歳。女盛りもあと数年なんだぞ。今は、春を売らずとも、お前を揚げる客もいるが、盛りを過ぎれば、そうも言ってはおれん。嫌な客にも春を売らなきゃいかん人生より、一人の男と添い遂げる人生の方が、幸せなんじゃないのか?」
そんなことは、雛菊だってわかっていた。あと数年もすれば、『春』を売らない遊女など、見向きもされなくなる。
この廓において、遊女は『春』を売ってなんぼ。そんな吉原遊郭で、ただ一人、『春』を売らずに花魁にまでのぼりつめた遊女がいた。
『情を交わすことが出来ぬ絶世の美女、雛菊花魁。はてさて、雛菊が花ひらくのは、いつこや。はてさて、誰が花を散らすのか』
噂が噂を呼び、今や雛菊花魁の逸話を知らぬ旦那衆はいないとまで、言われていた。
今日まで花を散らさずに済んだのは、ただ幸運が重なっただけ。元来の勝気な性格と、吉原一と言われる美貌、そして幼い頃から『おっかさん』に叩き込まれた教養のおかげで、春を売らずとも旦那衆からの揚げが絶えることがなかっただけ。
だからこそ、『おっとさん』が言っている事は、身に染みてわかっていた。
『春』を売らない遊女など、いつかは飽きられ、捨てられる。そうなってしまえば、待っているのは転落人生。
嫌な男にも股を開かねば生きていけぬが、吉原遊郭。甘い世界ではない。
ただ、譲れないこともある。
(あちきの心は、あの人のもの)
幼き頃の記憶が、胸を切なく痛ませる。
「まぁ、そうむくれるな、雛菊よ。お前を身請けしたいと言っているのは、あの大店の若旦那、越後屋の宗介様だぞ」
「はぁ!? ありえんせん。若旦那はあちきを揶揄って、遊んでいるのでありんす。なにしろ、あちきは、変わり者の花魁でありんすから」
呉服問屋『越後屋』といえば、江戸でも一二を争う大店の一つだ。そこの若旦那、宗介といえば、吉原でも知らぬ者はいない上客。一晩で、家一軒立つほどの金子を使ったとの逸話があるほどの『お大尽』様。宗介のお手つきになった遊女は、出世街道まっしぐらとまで言われている。
しかし、『馴染み』の盃を交わしてからの浮気はご法度とされる吉原において、何人もの花魁と床を共にしたりと、型破りな行動を起こすことも度々、決して評判の良い男ではない。
ただ、あの見た目だ。切長の瞳に、スッと通った鼻筋の精悍な面立ちは美丈夫の部類に入るだろう。しかも、瞳の横にある涙黒子が妙な色気を醸し出している。髷を結うことが当たり前の世で、髪を一本に束ね後ろに流す宗介の髪型は、江戸においても一際異彩を放つ。しかし、流行の着物を着崩す姿は、彼の風変わりな容貌を引き立て、男の魅力を最大限に引き出していた。
宗介の流し目に落ちない遊女はいないと言われるほどの色男。通りを歩けば、格子の中から大勢の遊女が、煙管の吸い口を差し出し、宗介を誘うという。金も権力も、そして男としとの魅力まで持ち合わせた男。それが、宗介という男だった。
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