春はまだ遠く ※

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 熱いほどの熱が離れ、急速に雛菊の身体が冷えていく。 「――ま、待って! 待っておくんなんし」  雛菊から離れた宗介は、背を向け一人、酒を飲み出す。宗介の背から感じる静かな怒りに、雛菊は焦りだした。 (あっちは、なんてことを……)  廓遊びの醍醐味は男女の疑似恋愛。好いた男と主さんを重ねて悟らせてしまうなんて、遊女として最低なことをしでかしてしまった。  一流の花魁として――、男に一夜の夢を売る遊女としてあるまじき失態だ。 「そ、宗介さま……、ごめんなんし」  畳に額をこすりつけ謝罪を口にする雛菊の目に涙が浮かぶ。だが、泣くわけにはいかない。今の雛菊に泣く資格はない。畳に突っ伏し、漏れそうになる嗚咽をたえる。  どれくらいの時間突っ伏していただろうか。きしっと床板が鳴り滲んだ視界の先に宗介の足が写る。 「なぁ、雛菊。遊女としての矜持も忘れちまうくらい好いた男が、おめぇにはいんだな?」  宗介の言葉に雛菊は力なく首を横に振る。しかし、そんな嘘、宗介はわかっているのだ。ただ、宗介だけには銀次の存在を知られたくないと心が騒ぐ。  首を横に振ったきり沈黙を保つ雛菊へと宗介が手を差し出す。 「言いたくねぇなら、言わなくたっていい。ただ、ちょっと付き合えや」  差し出された手に視線を落とした雛菊は、そのまま視線をあげる。泣きそうな、それでいて優しく細められた瞳に、雛菊の心は散々に乱れた。  差し出された手にためらい、彷徨う雛菊の手が宗介に捕まる。きゅっと強い力で引き寄せられ、その反動で雛菊は宗介の胸へと落ちた。  静けさに包まれた屋形船の中は、いつの間にか降り出した雨音だけが響く。  雛菊の手をつかまえ歩く宗介が、閉められていた障子を開ければ雨音はよりいっそう強く響いた。  しとしと……、しとしと……、と降る雨音が川面へと落ち、いくつもの波紋を広げては消えていく。    畳へと胡座をかく宗介に手をひかれ、雛菊が畳の上へと腰を下ろした瞬間、わずかに触れ合った肩が、なんとも言えない切なさを心へ宿す。触れ合える距離にいるのに、それ以上は触れてこない。そんな宗介の態度に雛菊の心は悲しみへと落ちていくが、雛菊にはその理由がわからない。 「なぁ、雛菊。どうして、男は皆、吉原遊廓に惹かれると思う?」  雛菊は宗介の言葉の意図が読めず、首をかしげる。 「……、男女の駆け引きが楽しいからでありんすか。賭博のように」 「はは、確かにそれもそうさな。ただ、そんな余裕のある男はひと握りさ。大抵の男は、吉原に一夜の夢を買いに来る。ここから見える吉原、雛菊にはどう写る?」 「ここから見える吉原でありんすか?」  宗介の指し示す方には、橙色に照らされ闇夜にぼんやりと浮かぶ吉原の高い塀が見えた。 「遊女からしてみれば、吉原は逃げることの出来ぬ牢獄だろう。ただな、あの塀の外が自由とも限らねぇ。それどころが、その日一日を生きるのに精一杯な奴の方が多い。ある意味、吉原より残酷な世界が牢獄の外には広がっている」  宗介の言葉もよくわかる。吉原に売られる前の生活は芋粥一杯ですら食べられない日もあったのだ。お腹を空かせ、いつ餓死するかもわからない死と隣り合わせの生活が幸せだったかと問われれば、正直には頷けない。  吉原に売られ知ったこと、それは死を選べるだけ幸せだと言うことだ。生きたくとも生きられない世界が外にはある。  そのことを教えてくれたのは、あの人だった。 『生きているだけで儲けもん。だから生きろ』  あの人が励ましに言ってくれた言葉の、本当の意味を今の雛菊は正確に理解できる。 (なんであの人のことを思い出すんかねぇ。宗介様は、あっちを助けた銀さんじゃないのに……)   「それでも、遊女は外の世界に憧れちまうんでありんす。残酷な世界が広がっているとわかっていても……」 「あぁ、そうだな。遊女は外の世界に夢を見る。そして、客は遊廓に夢を見るか。 ……皮肉なもんだな」 「そうでありんすな」  隣で胡座をかき座っていた宗介が、畳の上へと寝転がる。雨音だけが響く船の中、時間だけが過ぎていく。 「遊女は塀の外に夢を見て、客は塀の中に夢を見るか……、だからこそ悟らせちゃいけねぇ。心の中に誰を想っていたってかまわねぇ。ただ、それを悟らせちゃあ、いけねぇ」  宗介の言葉が深く雛菊の心に刺さる。 「他の男を悟らせるんは、三流遊女のすることさ。雛菊は、玉屋一の花魁だろ?」 「……あい」 「なら、悟らせちゃいけねぇ。雛菊――、男に馬鹿な夢を見させる一流の花魁なら、笑ってくれや。恋しい人の顔を俺に見せてくれ」  上体を起こした宗介が雛菊へと手を伸ばし、頬を優しく撫でる。   (恋しいと想う気持ち……)  切なく細められた宗介の目に、雛菊が写る。頬へと寄せられた手に手を重ね身体をゆだねる。 (愛しい人……)  優しく笑んだ宗介の顔が瞳に写ったとき、雛菊の心に衝撃がはしる。  幼き日に見たざんばら髪の童と宗介の顔とが重なり消えた。心の中にいたはずの銀次の存在が消えていることに雛菊は気づかない。 「雛菊……、やっと笑ったな」 「――――っえ?」 「いつか、心の中から追ん出してやるよ。おめぇの想い人って奴をよ」  トンっと雛菊の胸を指でついた宗介が笑っている。その悪戯な笑みに心が昂るのを感じていた。
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