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散りゆく桜
「あっち、だまされんしたのかねぇ……」
今朝方、禿のお凛ちゃんから手渡された瓦版を見つめ雛菊は深いため息をこぼす。そこには、『情を売らない花魁、吉原一の遊び人に春を散らされる』と大々的に名打たれていた。
昨晩催された玉屋の夜桜見物。仲店通りの両端に植えられた桜並木を照らす提灯の中、金糸に蝶が舞う黒打ち掛けをまとった雛菊の花魁道中は異様な盛り上がりをみせた。
もちろん、それは想定内。しかし、宗介に攫われるように吉原大門を出て屋形船の中、一夜を共にしたことまで瓦版に書かれ、想定外の事態に雛菊は頭を抱えるしかなかった。
一夜にして、宗介は情を売らない花魁を落とした男として時の人だ。
今頃、越後屋は流行に敏感な女達が押し寄せ、ごった返していることだろう。
(反物が飛ぶように売れるねぇ。あちきは外出もままならないっていうのに)
雛菊は、一つため息を吐き出し、瓦版から手を離せば、ヒラヒラと落ちていく。
「あちきの人生も、あの紙のように落ちていくのかねぇ」
宗介に春を散らされたわけではないのに、側からは春を散らされた花魁と見られる。契約を交わした時点でこうなることはわかっていた。むしろ、春を散らされずに金づるを得られたと喜んでいたはずなのに、心にぽっかりと穴が空いたようにわびしく感じるのはなぜだろう。
虚無感を感じるのは銀次に女として見られていない悲しみなのか、はたまた宗介にまで春を散らすことを拒否された絶望からなのか。
己にすらわからない心の変化に頭がおいついていかない。
「考えても仕方ありんせん。なるようになりんす」
欄干の縁に腰掛けた雛菊は、眼下に咲く桜の木を眺める。仲見世通りに咲く桜並木と違い、見ごろをとうに過ぎた桜の木は風が吹くたびに花びらが散りなんとも悲しげだ。
『おめぇは、桜が嫌ぇか?』
「えぇ、嫌いでありんす」
吉原の話題はあっという間に入れ替わる。今は『春』を散らされた花魁と興味本位の噂で賑わうだろうが、それも一時のこと。
(もって一カ月というところだねぇ……)
話題の中心から外れたら、宗介にとって雛菊は用済みだ。結局のところ雛菊は宗介の口車に乗せられ己の価値を下げてしまったにすぎない。あと数回、あの男に呼び出され、それで終い。
散りゆく桜と同じように、春を散らされた雛菊もまた散っていく。
「今頃、主さんはお気に入りの遊女と仲良くやってんのかねぇ。くくく、最後くらいお情けで、本当に春を散らしてもらおうか」
そんな皮肉めいたことを口にこぼしてしまうくらいには雛菊の心は荒んでいた。
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