遊女の矜持

2/4
前へ
/49ページ
次へ
「雛菊、こっちでありんす」  裏口をくぐった雛菊は遣り手婆の案内で宴席が開かれている二階へと急ぐ。 「遣り手、中の様子はどうなっていんすか?」 「今、扇屋の珠代花魁と葵屋の鈴香花魁が場を取り持ってやんす。ただ、それも限界かと。お侍様は雛菊を出せの一点ばりでして」 「菊花は、どこにおりんすか?」 「離れで泣いておりんす。よっぽど怖かったようで……」  遣り手婆の言葉に雛菊の目がすわる。  姉花魁なしで座敷に出た以上、菊花は一人前の遊女としてみなされる。何が起ころうと座敷を逃げ出すなどあってはならないのだ。それが花魁としての矜持。  沸々と湧き上がる怒りに握った拳がぶるぶると震える。しかし、『今は、それどころではありんせんね』と、菊花の問題は頭から追い出し、雛菊は腹に力を入れると、(ふすま)の前へと座わり頭を下げた。 「遣り手、やってちょうだいな」 「あいよ。旦那さま、お望みの雛菊花魁が来ましたよ」  遣り手の声とともに襖が開く。 「主さん、お待たせんした。雛菊でありんす」 「おめぇが、雛菊か」  スッと顔をあげた雛菊の目には、本来なら花魁の座すべき上座に陣取る目つきの悪い男が見えた。脇息(きょうそく)に頬杖をつく男は、結われた髷から髪が乱れ世捨て人のような風合いを醸している。目は虚ろで、頬を赤くしている様子からも、しこたま酒を飲んだと思われた。 (さんざん、暴れたようでありんすな)  お膳はひっくり返り、皿や盃、徳利があちらこちらへと転がっている。投げ出された料理や酒で畳に染みが出来、慌てて逃げた客や遊女が落としていったものか煙管や簪まで転がっていた。  阿鼻叫喚が伺える宴席において逃げずに留まることを決めた珠代花魁と鈴香花魁の根性には頭が下がる。  雛菊と場を繋いでくれていた二人の花魁の目線が交差する。一つ小さく頷いただけで、雛菊の考えを察してくれた二人の花魁は優雅に頭を下げると、雛菊と入れ替わるように退席した。 「よう暴れんしたねぇ。そんなにあちきのお酌が待ち遠しかったでありんすか?」  そう言って雛菊は最上級の笑みを浮かべる。その笑みのあまりの美しさに目の前の男は惚けたように口を開け、馬鹿面をさらしていた。  見たところ遊女遊びに慣れているようには見えない。それなら、なぜこうも暴れたのか?  急を要したため、遣り手から詳しい話は聞けなかった。しかし、この宴席の本当の主人は、目の前の男でないことだけはわかる。 (宴席の主さんに、暴れろとでも言われんしたかねぇ)  遊女への恨みから腹いせに、粗暴な男を雇い宴席で暴れさせることはよくある話だ。それをいなせないようでは一流の花魁とは言えない。  しかし、今回はやり過ぎだ。吉原遊廓の暗黙の了解として、男女の揉め事は内輪で収めるとされている。それは、客と遊女、双方の面目を潰さないためでもある。本来であれば、様々な妓楼の花魁が集まる宴席で揉め事が起きることはほぼない。揉め事の渦中にいる双方にとってあまりにも悪手だからだ。勝ったとしても、宴席を潰したとして双方とも評判は地に落ちる。  そんな危険をおかしてまで、雛菊を蹴落としたいと思っている相手は、いったい誰なのか? (まぁ、今考えてもしょうがありんせんね)
/49ページ

最初のコメントを投稿しよう!

197人が本棚に入れています
本棚に追加