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「ただな……、おめぇが一瞬だけ見せた笑みに盃を落としちまった」
「はっ? 盃を落とした?」
「あぁ、じじいにだけ向けた笑みを欲しいと思った。おめぇの目に、誰もいなきゃ別に良かったんだ。だが、あん時、おめぇの目に写っていたのは、じじいだけだった。それに、嫉妬したんだよ」
寝転び天井を見上げていた宗介が横を向く。そんな宗介の背を見つめ雛菊は沈んだ心が、ふわふわと浮くようなこそばゆい感覚をおぼえていた。
「そりゃ……、馴染みは特別でありんすから」
「そうさな。だから、おめぇの馴染みになりたかった。ただ一人、俺だけが」
がばっと起き上がった宗介が立ち上がり、雛菊の元へとにじり寄る。背後から抱きしめられ耳元で囁かれた言葉に心臓が大きく跳ね、身体に火がともる。
「雛菊……、おめぇに惚れてんだ。どうしようもねぇくれぇに」
「よしてくんなんし。もう、朝でござりんす。廓遊びは終いでやんす」
高鳴る鼓動を誤魔化し笑みを浮かべた雛菊は逃げをうつ。しかし、逃がしまいとする宗介に押し倒され、雛菊は天井を見上げていた。
真剣な眼差しの宗介が雛菊の頬を撫で、畳へと散らばった髪を一房掴み口づけを落とす。愛しい者へと口づけるような、その仕草に雛菊の心臓が跳ねる。
どんどんと熱を持つ身体とは裏腹に、雛菊の頭ではガンガンと警鐘が鳴り続く。
(騙されてはダメ。これは宗介の手のうちなのだから……)
「宗介さま、嘘はいけんせん。あっちとは契約を結んだ仲。ただ、それだけでありんす」
宗介から放たれる熱い視線から目を逸らす。しかし、それを許さないとでも言うように頭を抱えられ、固定されてしまえば、宗介から目を逸らすことも出来なくなった。
「契約か……、確かに、おめぇと契約を結んだ。ただな、最初っから俺の気持ちは変わんねぇ。雛菊、おめぇを身請けするって言った言葉は嘘じゃねぇ」
「はっ? あれは、あっちと馴染みになるための方便じゃ……」
「いんや、違う。おめぇを身請けするために、馴染みになったが正しい。まぁ、契約はおめぇを繋ぎ止めるための策って――、あぁぁ格好つかねぇ」
雛菊を離し上体を起こした宗介が、バツの悪そうな顔して胡座をかく。
「ほんと、おめぇの前だと格好悪りぃ男になっちまう」
ざんばら髪をさらに掻き乱し俯く宗介の耳がわずかに赤く染まっている。そんな姿を見てしまえば雛菊だってほだされてしまう。
そして、信じてしまう。宗介の言葉を。
「あぁぁ、ちくしょう!! 雛菊、俺の気持ちは本物だ。今回の事件が解決したら、もう一度、おめぇに申し込む。身請けをな!!」
そう言って立ち上がった宗介が襖を開け出ていく。その姿を唖然とした面持ちで眺めていた雛菊だったが、階下から聞こえた『旦那、お帰りかい』と騒ぐ若い衆の声に我に返った。
「……身請けでありんすか」
宗介の言葉を反芻するように呟いた雛菊の声が、こころなしか晴れやかだったことに気づく者は誰もいなかった。
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