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「何も知らないくせに……」
「確かにな、俺はお前の辛さなんて何も知らね。どれだけ辛い目に合っているかなんて知らね。ただな、ここ吉原は、唯一、女が男に勝てるところなんだ」
「女が男に勝てるところ?」
「あぁ、吉原一の花魁には、殿様だって逆らえねぇ。百姓出の女だって、自分の力だけで、この世の頂点にだって立てる。それが、ここ吉原遊郭さ」
「この世の頂点……」
「あぁ、そんな世界、見てみたいと思わねぇか?」
いつか見た花魁道中。絢爛豪華な打ち掛けを身にまとい、高下駄をさばきながらゆっくりと歩みを進める最上級遊女、花魁。歩みを進めるたびに巻き起こる歓声と熱視線を浴びながらも、決して花魁が表情を崩すことはない。その気高くも、美しい姿に、誰しもが羨望の眼差しを向けていた。
あの花魁の姿こそ、吉原の頂点。誰しもが、かしづく最上級遊女。
花魁は、どんな世界を見ているのだろう?
(きっと――――、空を飛ぶ鳥のように自由な世界が広がっている)
「お前、名はなんて言う?」
「名前?」
「あぁ、なんて名だ?」
「雛子……」
「雛子、お前は綺麗だ。きっと、吉原一の花魁になれる。だから、死ぬな」
そう言った男は、雛子の手をつかみ、その手に赤珊瑚で作られた花が咲く、黒漆の簪を握らせた。
「えっ、こんな高価なもの、もらえない!」
「雛子の銀の簪は、俺の血で汚しちまったからな。交換だ」
手のひらの上に置かれた簪を男が手に取り、雛子の髪にさす。
「よく似合っている」
スッと離れていった男の手が、わずかに頬に触れた一瞬、雛子の心が跳ねた。速まる鼓動を抑え、お礼を言おうと開けた口だったが、言葉を紡ぐことはなかった。
『坊ちゃん』と呼ばれた声に、男が弾かれたように濡れ縁から立ち上がる。
「やべっ! もう、そんな時間か」
駆け出した男が、最後にこちらへと振り向く。
「雛子! お前が、吉原一の花魁になった時は、俺が買ってやらぁ」
そう言って、銀の簪を振りつつ笑った男の顔があまりに無邪気で、雛子は何も聞けなかった。その男の名前すらも。
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