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「ごめんね。お待たせ」  ひとしきり当たり障りのない話を終えて、歩は戻ってきた。夏の夕暮れが迫ってきていた。人通りの多い交差点を曲がって細い路地に入ると、途端に静けさに包まれる。昔からある浅くて小さな用水路が、わりと勢いよく流れていく。水面を撫でた涼しい風がふわっと通り抜けた。 「あ…」  歩のカーディガンの襟が風を(はら)んで(めく)られた。ノースリーブの色白の肌が一瞬だけ(あら)わになり、俺はそこに見えたものに目を奪われた。 「歩。それ…」  二人とも立ち止まり、歩は襟を掴んで唇を噛みしめた。 「どうしたんだよ、それ。誰にやられた」  歩は俯いたまま答えない。俺は彼女の腕を掴み、もう一度その部分を晒した。柔らかそうな二の腕に青黒い痣が点々と残っている。 「…旦那か」 「私が悪いの。彼を不安にさせたから」  俺の腕を振り払って歩は肌を隠した。 「そういう問題じゃないだろ。これが大人のすることかよ」  あまりの怒りで目の前が真っ白になり、自分の声が別人のように聞こえた。今まで抑えてきたものが堰を切って溢れてくる。彼女の夫にはもちろんのこと、歩にも俺自身にも激昂が(ほとばし)る。  何なんだ いったい  誰よりも大切にするんじゃなかったのか  歩のために我慢してきた結果がこれか  だったらあの時   力ずくでもお前を奪っておけばよかった 俺は歩を引き寄せた。数え切れないほど諦めた温もりが、自分の腕の中にある。やっと彼女に追いつけた気がした。 「夏くん。ねえ、ダメだよ…」  囁くように伝えてくる声は震えていたが、俺を振りほどこうとしない。 「嫌だ。今お前の手を離したら絶対後悔する。俺だってもう子どもじゃない。お前のためだったら何でもするよ」 「夏くん…」 「帰ってこい、歩。俺がお前を守ってやるから」  歩が泣き出した。俺はますます腕に力を込めた。記憶の中の彼女よりも肩が細い。きっとまた一人で抱え込んでいたんだろう。だけど、俺にこれから出来ることもたくさんあるはずだ。わからなくても一緒に考えて答えを見つければいい。 やがて歩が鼻声でぽつりと言った。 「…両親には話したの。証拠も集まったから、弁護士に相談することになってる」 「そうか。よかった」  思ったよりも前向きな話にほっとする。こんな時でも、俺はこうして抱きしめることしか出来ないけど、歩が安心して帰ってくる場所を作ることは出来る。 そして、それが俺の全てでもある。 「彼ね、高校の担任だったの。八歳上なんだ」 「…そっちも年の差か」 「自分はこんなに我慢したのにっていう思いがあったみたい。あの花火大会のキス、見られちゃってたんだ」
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