追い込む

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追い込む

 日が沈んでしばらく、シガン宅の呼び鈴がひび割れた音をたてた。  三人が組合に出かけて行ったばかりだ。訪問者には心当たりがなかったが、シガンは深く考えずに玄関を開ける。開けた瞬間、眉間にしわがよった。 「はい。……どちらさまで」 「チャイムひとつで出てはいけない。ちまたを騒がす吸血鬼だったらどうする?」  どこかで聞いたな、これ。そこにいた男は背が高く、ヒゲを垂らしていた。服装は黒のコートにボウタイ。古めかしい紳士といった風貌である。ただ金の目だけがひどく得体の知れない恐怖を呼び起こさせた。シガンは素直にそれを認めた。 「あまり怖い目をしないでくれ」 「失礼した。妖精を無視しないでいてくれるのはありがたいことだ」  無礼な言いかたに、シガンは険しい目と無言を返す。 「……まずは礼を言うべきだったな。コウが世話になった、感謝する」  コウの知り合いか。並べば、きっと父か祖父のように見えることだろう。シガンはコウに親と呼べるものがいたと考えたことがなかったから驚いた。もちろん、吸血鬼がほかにいて、コウとは別に事件を起こしているとは聞いている。しかしユエンもアオもそれ以上の説明はしなかったし、シガンも深く聞こうとはしなかった。 「(わたくし)の娘が吸血鬼にした子ならば、我にとっては孫……だろう?」  シガンはぎゅっと嫌な顔になる。他人事のような態度が気に食わなかった。それと同時に、コウがもともと人間だったことにようやく思い至った。 「人を勝手に吸血鬼にしといてなにを」 「誰だって他者に『食うな』と強制することはできない。もちろん食われたくないのも道理だ。……吸血鬼の生きかたになじめなかったものは自然に消えていくだけのこと。吸血鬼として存在するということは、そうなってもよかったということだ」 「……なにを言ってるか、さっぱりわからん」  吐き捨てるように返したシガンに、男はそれでいいとうなずいた。吸血鬼の理屈は人間の理屈とは違う。人間にとっては不条理と思えることもある。人間の法を妖精が理解しないように。それでも男は人間に頼みたいことがあった。 「実は、もう少し面倒をかけたいのだが……」  シガンの眉間のしわが深くなる。しかし男は穏やかな口調でそれを頼んできた。 「あなたは画家だと聞いた。ひとつ絵を描いてくれないか」 「絵?」  予想しない言葉だった。吸血鬼も人間のように絵を楽しむ心があるのだろうか? 「娘の絵だ。あの子は家を出るときに写真をすべて焼いてしまった。だから似顔絵がほしい。あの子が帰ってくるように。……絵は文字と同じく、まじないだからね」 「で、どんな娘さんだったんだ」  結局、シガンは頼まれた絵を描くことにした。理解されないからすばらしいのか、わからないからすごいのか。それは違う。自分が描きたいのは、もっと人に近いところにあるものだ。こいつは吸血鬼だが、誰かが望むのなら描いてやる。 「髪は我のような黒色だったよ。目は明るい茶色だ。かわいい子だった」 「ふーん……。それで?」 「頬はふっくらしていて赤んぼうのようで……いや、覚えているつもりなのにな」  男はいつのことだったか、記憶が混ざってよくわからなくなっているんだと頭を掻いた。そんなことがあるかと言うと、「人間の成長は早すぎる」と笑った。「いつまでも小さいはずと思ってしまう」、「見るたびに大きくなった気がする」と。 「……どんな子だったんだ」 「む。話したとおりだよ。妻に似て……髪は巻き毛で、肩まであったな」  シガンは筆とは逆の手を動かしてそれをさえぎる。ほしい情報はそれではない。男の説明にはだいじなことがすっぽり抜けているように思った。 「ああ、違う、違う。つまり、どんなときに笑って、どんなふうに泣いて、どんな顔で怒ったのか……思い出だ、娘さんとの」 「それが必要なのだろうか?」 「必要だろ。外側だけ考えてもしょうがない」  それはリンゴを描くとき手触りや食感、匂いまで想像して描くようなものだ。リンゴの甘さ、酸っぱさ、おいしさを見た人に届けられるように。  男はふむとヒゲを触り、考えこむ。どこから話したものかと少しの間黙っていたが、かみ砕くようにして「彼女」の中身を語りはじめた。 「我には妻が三人いた。すべて人間だ。その()は三人目との間の子で、九人姉兄弟妹(きょうだい)の末っ子だった。本当に、かわいい子だよ。引っこみじあんでね、なかなか人の輪に入れず、よく兄の背に隠れていた。だけども、いつもにこにこと笑って楽しそうにしているんだ。声をかけるとまた隠れてしまうがね」  絵を描くなんてなんの役にもたたない。二十五になったらやめよう、三十になったらやめようと思ってやめられなかった。どこかで筆を折れたらよかった。どこかでどうしようもない壁にぶつかって、諦めざるをえなくなるのを待っていた。 「人間の戦争が起こる少し前だった。毎日、嬉しそうに出かけるもので、どうしたのか聞いたことがある。笑って『ないしょ』と言って教えてくれなかった。ある日、帰ってきてから閉じこもってしまった。そんなことは初めてだった。我はどうしたらいいかわからなくて……声がかけられなかったんだ。それが最後だったよ」  ぼくにとっての絵はなんだろう。それは強烈な破壊ではなく、誰かの人生の隣にいてその生活を守るようなものだ。どんな絵が良いか悪いかではなくて、ただ自分の描きたいものを知らなかったという話。 「けっこう、人間のように親をやってるんだな」 「妻には怒られてばかりだったよ。……ああ、口元はそれでいい。にこっと笑うとそんな感じだった。褒められて困ったように笑うのがじつに愛らしくてね」 「そういうものか。……ほら、こんなのでどうだ」  見せた紙の上で、少女がはにかんでいた。十四、五歳の子だ。男は絵を手にとって、懐かしそうな目で見る。絵は描いて終わりではない。それを見るなかで、あいまいななにかを形にするものだ。この子がなにを言いたいのか、男にはわかるのだろうか。 「ああ……そうだ、この子だ」 「そりゃよかった。娘さん、元気だといいな」  そう言った後で、コウを吸血鬼にしたやつだということを思い出す。この事件に関わっているのだろうとも。それでもこの男にとってはだいじな娘なのだ。 「そうだね。……おお、こういう場合、人は謝礼を渡すのだったな」 「ん? まあ、それは……」  男が思い出したように懐を探す。ユエンに比べ、人のような仕草だと思う。思い返せば、ユエンはまるで人間らしくなかった。食べはするが、風呂もトイレも使わなかったじゃないか。あんなのに違和感をもたなかったのが不思議なくらいだ。 「これでよいだろうか」  ジャラッと手のひらにのせられた重さは、シガンが考えていたものと違った。それは数枚の金貨だった。人の横顔が描かれている。 「うむ、領収書はドラクリヤで頼む」 「……申し訳ありませんが、取り扱っておりません」  そして場面は組合のオフィスに移る。  夜も遅くなってきたころ、冷たい風を連れてその男が来た。ノックに「どうぞ」と答えると、ギシリ、メキッと音をたててきしむドアが力ずくで開けられる。男はぐるりと見まわしてミトラに目を止めた。ミトラはつい先ほどここに着いたばかりだが、男はすぐに彼が自分の話すべき相手だととらえた。 「ふむ、あなたが責任者かな?」 「私が宇気比ミトラ、都の吸血鬼対策担当です」 「ああ、我は今いる吸血鬼の始祖だ。竜老公とも呼ばれる。よろしく頼む」  そこにいた人間たちは反射的に怖いと思った。金色の目がぞわりと背筋を凍らせる。しかし男のほうもヤスコさんを見ていた。犬のヤスコさんは鼻にしわを寄せてうなっている。イチコが命じたらすぐに男に噛みついてやろうというように。 「話の前に、犬を押さえてくれるかな? ……怖いんだ」 「それはすまなかった」  イチコがヤスコさんを抱きあげる。ヤスコさんは不満そうにイチコの鼻をなめた。吸血鬼の始祖、恐ろしい目を持つものが、こんな小さな犬を怖がるとは。 「それで、話したいこととは」 「我が娘を人の情念から取り戻したい。あれは人だけでは倒せまい」  竜が静かに告げると、静かにざわめきが起こった。 「あなたがたが肉塊と見たものだ。彼女は……地に染みこんだ人間の情念を呼び寄せてしまった。人間の念は、我々を心の底から変質させる。娘を元に戻してほしい」  目と口のある肉塊、人を襲い殺していたもの。それがこの竜老公と名のった吸血鬼の娘か。吸血鬼を倒すため吸血鬼の元締めを信じろという。……人間だけでは倒せないというのなら、拒否することはできないのだろう。 「……元に、とは。人を襲わなくなると?」 「そこまではわからない。けれども今、暴れているものはおさまるだろう」  竜の言葉に、タカノリがそっとミトラを見た。(その吸血鬼の処遇は)。視線でそれに返す。(今はこの話に乗るのが先だ。捕まえてもいない吸血鬼の扱いを考えるより)。ミトラは再び竜に目を戻した。 「で、具体的にどうするつもりですか」 「彼女は眷属をいくつか失っている。だから人の血でおびきよせ、そこを倒せばよい。弱ったところで本体の封印を除き、地面からつり上げる。そこで彼女がまとっている人の情念をはがしてくれ……そこから先は我がやろう」 「本体? 封印だって?」  当然の疑問が出て、ユエンが横から口を出す。 「あれは青戸の木の下に封じられている。その根を掘りかえして引きずり出す」 「そこまで追い込むのは死の守り神殿に頼みたい」  竜老公は敬意を持ってユエンに頼んだ。ユエンが嫌そうに目をひきつらせる。 「その呼び名はやめろ、つまらん。……私の影で地面を塞ぎ、青戸まで誘導しよう」
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