おわってしまったこと

1/2
前へ
/42ページ
次へ

おわってしまったこと

 竜老公が去った夜から一週間。鬼害事件は終わった。そのニュースは人々の恐怖をおさめ、すぐに消えていった。道端ではきゃあきゃあと子供が笑い転げる声がする。 「傘、折れちまったよ」 「折ったんだろ。雨なんてねえのに持ってくるんだもん」  学生が連れだって歩いていく。それを避けて自転車が走りさった。  その場所は探さなければもう血の跡すらわからず、事件のことなどすっかり忘れたかのようだ。道路脇にささやかに供えられた花が首を垂れていた。  殺された人には身寄りがなかったと聞いた。友人と同僚が葬儀を出したのだと。シガンは悲しむ人がいたのだと思ってやりきれない気持ちになる。それと同時に、悲しむ人がいなければ殺していいというのも違うだろうと首を横に振った。 「……ごめんなさい」  シガンのまねをしてコウが手をあわせる。どんな形式でもいいが、形をとることは必要だ。コウはそっと目を閉じて、あの世があればいいと思った。誰もあの世を見たことがないという。それでも、彼が救われてほしいと願った。彼の差し出した傘が意味のあるものであってほしかった。 「悲しいな」  シガンがつぶやいた。放っておけば、コウは自分で自分を責めるだろう。彼の頭のなかで死者がどう怒るのか想像する。答えの出ない想像はどこまでも膨らんでいく。それほどつらいことはないし、死んだ人の心を勝手に決めるなんてできない。 「……うん、悲しい」  コウはゆっくりと顔をあげる。 「ありがとう、ね」  届かなかったけれど、その手は確かにコウに向けられていた。あのとき、受けとることができればよかったと思う。だから、なかったことにはしたくない。  新幹線を降りて在来線に乗りかえた。アオは窓のむこうに通りすぎる海を眺め思い出す。今まではっきりと考えないようにしていたことを。簡単に報告書をあげた後、ムリを言って休みをとった。……弟に会わなければならない。  俺は逃げてしまった。コウが吸血鬼であることから逃げ、コウの聴取からも逃げた。でも、コウは逃げなかった。暗闇と向きあい帰ってきた。自分を吸血鬼にしたものに立ち向かい、決めたことをやり通した。だから俺も逃げることをやめようと思う。  コウを見ては弟のように思い、シガンを見ては成長した姿を思い浮かべた。彼らが前を向くのを見て、アオはようやく弟に会いにいく気持ちになった。すんだことはどうしようもないが、置いてきた弟に会い、なにかを終わらせたかったのだ。  アオが育ったのは小さな集落だった。海と山の間にある唐犂(からすき)集落だ。父は酒が入ると怒鳴って暴れ、殴る人だった。母は見ているだけか、父に追従してアオを責めた。アオは父の言うとおりにしなかったのでよけいに殴られた。  そんな生活が変わったのは弟が産まれてからだ。小さな弟は親の言うことをよく聞いたのでかわいがられた。「ああなったらダメだ」。賢い弟はそのとおりにした。「あいつに近づくな。仲良くするな」。だからアオと弟は仲良くはなかったと思う。  弟が五つのときだったか。「やめて!」。普段叫ぶことのない弟の声がした。走って二階にあがってくる。アオが見ると、階段を見おろしておびえていた。弟も殴られたのだとはっきりわかった。階段の下には父と母がいて、弟を追って上ってくる。手には……なにか持っていたんだと思う。その顔はもう思い出せない。  とにかく、アオは弟をかばって手にしていたものを投げた。それは父に当たらなかったけれど、予期せぬ反撃に酔っていた父は足をすべらせた。そして母を下敷きに会談を転げ落ちていった。  それからどうしたのか、はっきり覚えていない。とにかく、動かなくなった両親を見て誰かを呼んできた。酒を飲んでいたことから事故だということになって、ともかく、アオはなにも言われなかった。アオも混乱していて、弟にどう声をかけていいかわからなくて、とにかく落ちつかせなきゃと思ったのは覚えている。 「チグサ、もう大丈夫だからな」  弟は、しばらくぼうぜんとしていた。兄のほうを見ようとはしなかった。 「……ひとごろし」  最終バスに乗って着いた集落は、二十年前とあまり変わらないように見えた。山ぎわに田畑が並んでいる。空が広く、ぽっかりと空いているようだ。むこうで犬のほえる声がする。アオは住人に顔を見られないようにして山に向かった。  山の上、崖近くに神社があった。竜が去った後、弟宛に手紙を出した。弟は二人だけで会いたいと書いていたから、日時と「神社で待っていてほしい」とだけ書いた。  この神社では矛と剣、()を使って神楽をする。アオも矛を持って舞った。神楽をアオに教えてくれたのは表瀬ナオヒという男だった。ナオヒは両親を亡くした兄弟の面倒をよく見てくれた。当時二十くらいだったか、ずいぶん大人に見えたものだ。「大変だろうが、生きていればいいことあるからな」と言って励ましてくれた。  ナオヒは何かと世話を焼いてくれて、頼りになる男だった。高校に行くことができたのもナオヒのおかげだ。卒業して弟を食わせなければならなかったアオが働くのを助けたのもナオヒだった。弟だって彼に懐いていた。  そのナオヒも結婚して、娘が生まれた。その娘が一歳と少しになったころ、ナオヒに会いに来たアオは、家の前の水路にその娘が落ちているのを見つけた。うつ伏せに倒れていて、溺れてしまうとアオは慌てて持ち上げた。娘は水を飲んだらしく、むせてなにがあったかわからないと言う顔をした。  そこにちょうどナオヒは行きあった。そして、アオが娘を連れ去って殺そうとしたのだと考えた。小さな子がそんな遠くまで行けるはずがないと。違うと言ったが、ナオヒはまったく聞く耳を持たなかった。「親を殺すようなのは信用できない」と。  一度だけナオヒにもらしたことがある。「親を殺したのは自分だ」と。彼は話を聞いて「それは、おまえのせいじゃない」と言ってくれた。それなのに、今のナオヒは人が変わったように怖かった。訴えることはしないが、絶縁すると告げられた。  アオはひとりで集落を出ることにした。弟に迷惑はかけられなかった。人殺しの弟と広まれば、この狭い集落に居場所はない。その弟のことだけはナオヒに頭を下げた。もともとナオヒは弟をかわいがっていたので悪いことにはならないだろう。  とりあえず少し離れた都市に出て、名前を変えて仕事を探した。生きていればいいことがある。そううまくはいかなかったけれど、そう信じるしかなかった。  夜の街をさまよっていたとき、食人鬼が現れた。逃げ惑う人々のなかに、子供を守る父親を見つける。食人鬼がそちらを見たとき、アオは近くから物干し竿をとってきて食人鬼の足に振りおろした。無我夢中で親子が逃げる時間を稼ごうとする。  ……そんなことできなかった。すぐに大きな爪がふってきて、アオは避けることもできずにそれを眺めていた。なんにもできずに殺されようとしたとき。  食人鬼の腕を一刀で切り落としたのは老年の男。たすきに袴といったその当時でも珍しいいでたちで打刀をひるがえした男は、なめらかに食人鬼の首を切り落とし、再生しはじめたと見るやすぐさま平突きにした。塵の舞うなか、アオは男から目を離せなかった。  後始末が終わった後、髪の薄い男はあの親子が礼を言っていたことを教えてくれた。アオは少し救われた気がした。たとえわかってもらえなかったとしても自分はいいことをしたのだと。人を助けるなら生きていてもいい気がした。  言葉遣いを変え、明るくふるまい、そうして二十年が過ぎていた。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加