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「チグサか?」
「……兄ちゃん」
「元気だったか?」
チグサはもう三十過ぎだろうか、ずいぶん大きくなったなあと嬉しく思った。ひんやりと暗く木々の陰になって互いの顔さえ見えないが、身長はアオを超している。
「ああ。兄ちゃんは」
「ぼちぼちな。ちゃんと食ってる?」
「……家族みたいなこと言うなよ」
底瀬チグサは苛立った態度で言い返す。アオは近寄ろうとした足を止めた。
「ん……ごめん。ちょっと心配だっただけで」
「心配? いまさら?」
アオがなにか言う前、弟は突然、爆発したように叫んだ。
「兄ちゃんは父さんと母さんを殺すし、ホットケーキは焦がすし、肉詰めピーマンばっか毎日作るし、ずっと、ずっと大嫌いだった!」
それはかんしゃくのようで悲痛にも聞こえた。弟はいい子だったから、ずっと我慢してきたんだろう。兄のこともあって、この集落にいづらかったのかもしれない。
「うん、そうだな。俺のせいだ。ごめん」
アオは弟に嫌われてもしかたのないことをした。こんな兄のことなんか忘れて、しあわせでいてほしかった。けれども、続く言葉にアオは目をみはった。
「みんなオレのことなんかどうでもいいんだ。怒鳴っても殴っても言うこと聞かないじゃないか! いつも思い通りにならない! みんな俺から離れていく!」
いきりたって言い放った言葉に、ぴくりとアオは反応した。怒りを感じとり、チグサが動揺する。弟も父と同じだということにカッとなり、アオは詰め寄って彼の首元をつかんだ。手にぎゅっと力が入る。ダメだ。そう思っても止められなかった。
「おまえ……」
「オレだってわかってる! わかってるんだよ……」
苦しげな泣き声が混じる。化け物のように変形したアオの右手と右目におびえ、それでもすがるように手をかけた。その表情は卑屈に笑っているようでもあった。
「わかってるんだ。あんなことしたって……。もう嫌だよ。オレなんか、どうしようもないんだ。なあ、兄ちゃん、もうオレを置いてくなよ」
二人は組み合ったまま、背後の崖へと倒れ込んだ。チグサの体がぐらりと落ちる瞬間、アオは体勢を変えた。崖を蹴ってチグサを高く放り投げる。チグサの体が飛んで崖の上へ消えていくのを見て、アオは谷の暗がりに飲み込まれていった。
地面に叩きつけられたチグサは転がって、痛みにしばらく動けなかった。
「ササメ兄ちゃん……!」
本当は帰ってきてくれと言いたかった。ナオヒだって今は後悔しているのを知っている。こんな自分を叱ってほしかった。だいじな弟だと言ってほしかった。それなのに言えなかった。知らない土地で自分を忘れてしあわせそうな兄が許せなかった。
谷間にすすり泣きが落ちていく。
「……なにを笑っている」
「わかってたよ、ユエンさんがそこにいること」
暗闇にかすかに香煙のような匂いがした。アオは静かに微笑んだ。ここはユエンの闇のなかで、そこにユエンがいることを知っていた。ゲンがアオの影についていて、落ちるとき陰になって受けとめてくれたのだ。
「そうか」
「あそこで死んどいたほうがよかったって人はいるんだろう。でも、できなかった」
「そうか」
ユエンはただうなずいただけだった。
「あれにはゲンをつけたから、そう悪いことにはならんだろう」
「そっかあ……。ユエンさん、ありがとな」
「あいつのためではない。おまえのためでもない。おまえが決めるまで待つだけだ」
ここには光もなにもなくて、音だって自分とユエンの声だけだ。
……実家にいたころ、真夜中はようやく安心できる時間だったことを思い出す。どこまでも優しい暗がりにアオは手を伸ばした。柔らかい手に触れて、ユエンがすぐそこにいることを知った。その手を握り、アオは語り始める。
「俺は、ずっと弟から逃げていたんだ。そのほうが弟のためだって言い訳をして」
「おまえは帰らなくていい理由を探していたのだな」
「……うん。ちゃんと会って謝らなきゃって思ったんだけど、違った」
弟は自分のことなど嫌いだと思っていた。親のことで恨まれていると。けれども、恨んでいたのはそこではなかった。彼は兄に捨てられて泣いていたのだ。そのくらいにはアオのことを嫌いになれずにいたのだろう。
「どうすればよかったんだろうな、俺……」
アオの声に二十年降りつもったやりきれない悲しみが混じる。
「なあ、アオ。苦しいのはそれぞれだ、おまえだけじゃない。……だからといって、おまえが苦しいのがなくなるわけではないが。けれども、私は苦しくて神に祈った人がいたのを知っている。おまえの生まれるはるか以前の、知らない土地の、名前も残っていない誰かが、神に祈っていたことを知っている」
なにも見えない暗闇のなかで、いつだって誰かが神に祈っていた。そして今も。そうやって人は生きてきた。ユエンはずっとそのそばで死を守ってきたのだ。
「……そっか」
ユエンは人といたときのことをすべて思い出せる。人の誕生を喜び、人の成長に驚き、その死が穏やかなものであるように願った。しかし人は変わってしまった。古くから死に寄り添ってきた神は捨てられた。後には思い出しか残らなかった。
「だから私は神でいたかった……人の祈りに応えられる神でありたかった」
神でなくなったらすべてが幻になってしまうと感じた。かつて人に望まれたことも、人の死を守りたいと思ったことも全部なくなってしまうようで怖かった。
「死は平等だ。だから死の神も平等でなくてはならない。だが、私はそのようにいられなかった。多くの信者がいなくなった今、ただ自分の手の届く者を死から遠ざけようと思ってしまった。そうして、お前からまっとうな『死』を奪った」
「そんなこと……」
「私は……神であったころに戻りたいのだろうか。私は死の神だが死を知らない。あの世も知らない。そのうち消えていく、神のふりをしているだけのものだ」
そこでアオは自分が言葉を間違えたことに気づいた。ユエンの形をした揺らぎにゆっくりと自分の呼吸をあわせる。
「俺は、神だったところも、そうあろうとするところも、そうじゃないところも、ユエンさんだと知っている。俺は、ユエンさんがユエンさんであるように信じるよ」
暗がりに、ユエンがまばたいたように見えた。信じるということは、自分では思い通りにならないことをなにかにまかせることだ。それなら信じようと思った。ユエンのことも、弟のことも。そして自分のことも。それは諦めにも似た安心感だった。
「神に会ったことあるやつはいないんだろ? だったら、それは神じゃなくて、ユエンさんがそうしたいからだ」
「そうか、それが私の……望みか」
ようやく安堵したようにユエンの闇が揺れる。それは柔らかい笑みの形をしていた。
「私はおまえの力になりたい。おまえはどうしたい?」
「もうちょっとこうしていたい。ユエンさんにいてほしい」
「そのくらいの願いは叶えられる。……おまえはがんばったよ。イイ男だとも」
ユエンの影がアオの頭を撫でた。「愛している」「信じている」。……人はそういう言葉を好んで使うがそれは錯覚だ。本当かどうかを誰も確かめることができない。けれども、「信じられている」という感覚は、言葉にできない安らかな気持ちだった。
アオは泣いた。初めて声をあげて泣いた。熱い涙が頬を流れ、すぐに冷たくなって落ちる。その感触すら気にせず、鼻が痛くなってもひたすらに泣き続けた。
「たくさん泣くといい。人のために泣くには、自分のために泣かなくてはならない」
優しい闇に居場所ができると、物事がはっきりと見えてくる。あのときはああするしかなかったと諦められた。ただひとつ、後悔していることは、「なにがあってもだいじな弟だよ」と伝えられなかったことだ。
やがて泣き声が小さくなり、一度しゃくりあげるとアオは笑った。
「手紙を書くよ。置いていって悪かったって、ずっとだいじに思ってるって。……そして、もうひとりにも。あの人なら弟のこともちゃんと叱ってくれる。だから大丈夫、そう信じる」
市の中心街までおり、駅で朝一番の電車を待つ。
手紙はユエンに頼んでチグサとナオヒの家の郵便受けに入れてもらった。どう受けとめられるかはわからない。このあとどうなるかも。それは無責任だ。けれど、もうアオには責任のとれないことだと受けいれていた。すぐにうまくいくなんてことはないだろう。でも、時間はかかっても、いい方向にいってほしいと思った。
アオは自分の異形となった右手を見つめる。これはコウとシガンから逃げた罰だと思っていた。でも、今は違う。俺が逃げようとしたのを、それでもと手をつかんでくれた証だ。だから、こんな俺でも生きていていいのだと思えた。
ユエンは時刻表を眺めている。電車はもう少しで来るだろう。そろそろホームに入ろうとして、アオは気づいた。
「あれ、ユエンさん、お金あったっけ?」
「ない。おまえの影に入ればいいからな」
「いや、ダメだろ」
「なぜだ? 席を使わないから、料金をとられるいわれがない」
そう言われるとそんな気もするし、いやそれは違うだろうとも思える。ともかく、ユエンがお金を持ってないことは明らかだった。
「……わかった。お金払うから隣、座ってくれる?」
「ふむ?」
「俺がそうしてほしいから」
シガン宅にアオとユエンが帰ってきた。たいして離れていないのになんとなく懐かしく思える。三ヶ月ほどいただけなのに、いつの間にかこの家になじんでしまった。
「おお、おかえり」
「おかえりー」
シガンとコウが明るく迎え入れる。何事もなかったようにとはいわないが、みんなそれぞれそうあろうとしている。もちろんアオもだ。言ったところでしかたがないことなら、変わらず「いつもどおり」でいたい。
「うん、ただいま。……コウくん、ちょっといいかな」
アオはコウの前に膝をつき、真剣な話を始めた。コウも目をあわせて聞いている。
「これからのことなんだけど。もしよければ俺のとこくる?」
シガンのところにはいつまでもいられない。でも、まだ竜のところに行くとは決められないようだ。アオだって子供ひとりくらい養うことはできる。そこに行かなきゃならないと思うより、自分で選んだほうがいい。そのほうが納得いくに違いない。
「アオのとこ?」
「ここからちょっと離れてるけど、俺と一緒だ。だから、考えてみて?」
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