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亜美【一】
夏の夜空を染め上げる三尺玉には、観る者を惑わせる不思議な力がある。幼い頃の私は、本気でそう信じていた。幼馴染たちと浜辺で花火を観ていると、一番いいところで必ず涙がこみ上げてくる。そのたびに私は、まるで目の前に広がる夜の海に映ったような、涙でゆらゆらと滲む花火を見上げることになるのだ。
その不思議な涙の正体に気づいたのはいつかというと、初恋を経験し、心身ともに女性であることを強く意識し始めた小学校高学年の頃だ。刹那的な美を儚む感動。これはちょうど、誰かに恋をしているときの感覚に似ている。
それからは花火を観て感涙にむせぶことはなくなったが、人生とは奇妙なものだ。私はある年から、幼い頃は滲むだけだった花火をまともに観ていられなくなってしまった。胸を突くような花火の打ち上げ音を聞くと、たちまち涙に襲われてどうしても上を向いていられなくなる。
悲しいからでも、激しい感動に襲われるからでもない。ある年の夏に観た三尺玉が、そのときの状況と共に蘇って私の胸をいっぱいにするからだ。久しぶりに三人で見上げた、頭上を埋め尽くす眩い光の粒たち。あの光景がなければ、今頃私たちはお互いの顔さえはっきり思い出せなくなっていただろう。
「亜美、先に子供たちと車に行ってるからな」
まだ午前中の早い時間で、しかも出かける前だというのに、玄関から聞こえてきた夫の声はすっかりくたびれていた。とうに出かける準備を終えている五歳の息子と三歳の娘が、待ちくたびれてぐずり始めたのだろう。
「わかった。荷物の点検はあとちょっとだから、子供たちを乗せたら運ぶの手伝って」
夫は気のない返事を残し、興奮した笑い声を上げる二人の子供を連れて玄関を出ていった。
リビングの隅にまとめておいた山のような荷物の前で、一つ一つ指を差しながら中身を確認していく。毎年のこととはいえ、帰省の荷物は子供の成長と共にがらりと変わる。それに、誰に似たのか三歳の娘はこだわりが強く、お気に入りの玩具が手元に無いとすぐに機嫌が悪くなる。もし入れ忘れでもしたら、帰省中ずっと娘の八つ当たりをなだめることになるだろう。
ようやく確認を終え、最後の荷物を抱えて玄関で靴を履いているときだった。私は慌てて履きかけの靴を放り出した。甲高い電子音が背後から聞こえたからだ。あれほど念入りに荷物の確認をしたというのに、どうやら携帯電話をバッグに入れ忘れていたらしい。
リビンクに駆け戻って携帯電話を取り上げると、待ち受け画面の通知が目に入った。先ほどの通知音は、メッセージの着信だったようだ。友人や知り合いには今日から帰省することを伝えてあるし、実家の両親に到着時刻を言い忘れたなんてこともない。こんな朝早くからメッセージをよこすなんて誰だろう。
メッセージの中身を確認してみると、思わず笑みがこぼれた。こんな朝っぱらから私の携帯を鳴らしたのは、最近実家に戻って家業を継いだ幼馴染だった。実は彼には、小学生の頃から女子の隠れファンがたくさんいた。しかし運命とは皮肉なもので、わがままで自分勝手だった私のほうが彼よりも先に結婚してしまった。
〝暑中お見舞い申し上げます。花火の時期になりましたね。今年もご家族揃って観に来られると聞いて、あの頃みたいに喜んでいます。それでは、良い夏休みになりますようお祈りしております〟
私が知っている彼は、どれほど時が経っても無邪気な少年のままなだ。それだけに、こういう年相応の文面を送ってこられると何だかくすぐったくてたまらない。このメッセージは、帰省する車中で夫にも見せてあげよう。何しろ私と夫と彼は、幼稚園時代から遊んだり喧嘩をしたり、物心がつくまでは一緒にお風呂にも入っていたくらいの古い仲だ。
それに、花火大会が催されるこの時期は、私たち三人にとって大切な思い出が詰まった季節でもある。まさに私たちは、花火の後ろでいつも輝いていた、夜空に浮かぶ夏の大三角。私がこと座のベガなら、彼ははくちょう座のデネブ。夫はさしずめ、私と彼から少し離れたところで澄まし顔をしている、わし座のアルタイルといったところだ。そういえば、七夕でいうとベガは織姫星、アルタイルは彦星だ。まさに夏の大三角は、私たちの関係を表すのにうってつけというわけだ。
彼がこの時期にメッセージを送ってきたということは、彼もまた、私たちと過ごした熱く、苦しく、底抜けに眩しかった夏の夜を、十年経った今も大切に思ってくれているということだ。もしそうでないなら、私は一生をかけて彼に許しを請わなければならない。しかし彼はきっと、どんなに私が謝罪や感謝の言葉を並べ立てても、お決まりの得意顔を少しも崩さずに、それらはすべて勝手な思い違いだと、相も変わらず私を少女扱いして一笑に付してしまうのだろう。
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