亜美【二】

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亜美【二】

 私と智也(ともや)勇輝(ゆうき)は、潮風の匂いに包まれた小さな町で育った同級生だ。私の両親は会社員で、元々は都会の賃貸マンションに住んでおり、私が三歳のときにこの町の分譲マンションの一室を買った。子育てがしやすい環境で、そこそこ長閑であり、通勤にも便利だったことが移住の理由だ。  智也の実家は祖父の代からの和菓子店で、名物の『お天道(てんと)最中(もなか)』は炎の花びらに包まれたような夏の太陽を(かたど)った、海に近い町ならではの銘菓だ。しっとりとした程よい甘さの餡子(あんこ)と、香ばしくぱりっとした歯触りの皮が絶妙で、今でも年に数回は無性に食べたくなる。  そして勇輝の実家はというと、海辺の景観に溶け込むように建っている、宮本楼という閑静な老舗旅館だ。その趣のある木造の佇まいは、幼かった私たちにも心地好い開放感と旅情を感じさせてくれた。私は三人で旅館の敷地内を探検する遊びが好きだった。旅館という特別な場所と、敷地内の古く奥ゆかしい雰囲気が、私たちを瞬時に遠い異世界へと運んでくれたからだ。たまに業務の邪魔になって叱られたのはいい思い出だが、そのたびに勇輝は私と智也を庇ってくれた。多分私たちが帰った後、私たちの分まで親にこってりと絞られていたことだろう。  智也と勇輝の性格の違いは、昔から何事においてもはっきりと表れていた。小学五年生の夏、子供たち三人だけで宮本楼の一室に泊めてもらったことがあった。遊び疲れた私たちは部屋の明かりを消して、川の字に敷かれた布団に横になった。旅館からほど近い磯に打ちつける波の音が、穏やかなリズムとなって耳の奥をくすぐる。目を閉じるとすぐに微睡みが訪れ、まるで小舟に乗せられてゆらゆらと漂っているような気分になった。  気がつくと私は、心地好い疲労と達成感に満たされた波間のゆりかごから身を起こし、暗い部屋の中でじっと耳をそばだてていた。 「──あーちゃん、どうしたの?」  内緒話でもするような声で訊ねてきたのは、同じように上半身を起こしてこちらを見つめる智也だ。続けてすっかり寝入ったと思っていた勇輝が首を上げ、手の甲で目を擦りながら投げやりに呟いた。 「トイレの場所は知ってるだろ。まさか、怖いのか?」 「違うって。何か変な音しない?」 「変な音って、どんな?」  私は暗闇にぼんやりと浮かぶ勇輝の寝ぼけ面を横目に、 「勇輝が教室の掃除から逃げ出すときみたいな、カサカサ、コソコソ、って音」  と言って、思い切り口を尖らせてみせた。勇輝はさも億劫そうに聞き耳を立てていたが、やがて小さな溜め息をついてごろりと背を向けてしまった。 「本当だ。まるで波を追いかけたり逃げたりしているみたいな、何かが動く音……」  声の方を向くと、智也が神妙な顔をして肩を強張らせていた。その瞳は一点を見つめているようで、よく見ると忙しなく部屋の隅々を探っている。 「でしょう? 何の音だろう。もしかして……」  私が言いかけると、智也はばたりと横になって掛け布団を鼻の下まで被った。必死に眠ろうとしているようだが、見開かれた両目は瞬きも忘れて天井に食い入っている。その様子を見ているうちに背筋が冷たくなってきた私は、たぐり寄せた掛け布団をマントのように羽織って膝を抱えた。部屋から飛び出したくて仕方がない私に、智也みたいに横になる勇気はなかった。 「びびってんのか? あんな音のどこが怖いんだよ」  こちらに向き直った勇輝の、にやつく口元が見えた。普段ならすぐさま蹴りを入れてやるところだが、すっかり縮み上がってしまった足は動いてくれそうにない。 「勇ちゃんは、あの音の正体を知ってるの?」  智也が消え入りそうな声で訊ねると、勇輝は失笑をこらえているのか、気の抜けた戯け声で答えた。 「あれはフナムシの足音。あいつら夜になると、いっぱい集まって波打ち際を走り回るからな」 「なあんだ、フナムシか」  がばりと跳ね起きた智也が、ずっと我慢していた息を吐き出すかのように声を漏らした。  勇輝の種明かしによって智也には平穏が戻ったようだが、冗談じゃない。私にとってはむしろ、正体を知ったことは後悔でしかなかった。きっと勇輝の頭は、言わぬが花、を理解できない構造なのだろう。  私が羽織っていた掛け布団を頭から被ると、ほっとしていた智也の気配が再び張り詰めるのがわかった。せっかく安堵していたのに申し訳ないとは思ったが、こればかりはどうにも我慢ができない。 「あ、あーちゃん。フナムシはね、名前にムシって付いているけど虫じゃないんだよ。カニとかエビとか、甲殻類ってのに近い生き物なんだって」  私は幼い頃から虫が大嫌いだった。男の子が夢中になるカブトムシやクワガタももちろんダメだし、木にとまっているセミも秋になると飛び回るトンボも、鳴き声が美しいと言われるキリギリスやスズムシだって、ちらとでも姿を見るとたちまち怖気を催してしまう。だから当然、フナムシが大丈夫なわけがなかった。しかもフナムシの大きさや動きは、たまに家の中に現れる黒くてすばしこい、何よりも大嫌いなアレにそっくりなのだから。 「足音がこんなところまで聞こえてくるってことは……」  そう呟いた私の語尾を、智也が慌てて遮る。 「待って待って! エビとカニだよ。あーちゃん、エビ好きでしょ? エビフライとかエビマヨとか、そうだ、こないだ食べた海老カツバーガー覚えてる? あれ、すごく美味しかったよね!」  私の意識を逸らそうとしていることはわかっていたが、ここまでくるともう止まらない。私の瞼の裏は、すでに黒いアレの大群でいっぱいだった。全身が隈なく総毛立って、立ち上がろうにも足に力が入らない。 「もしかして、旅館の中にも……」 「そんなはずないよ。出入り口も窓も全部閉まってるんだから、ここには絶対入って来ないって。そうだよね? 勇ちゃん」  智也が半ば言い聞かせるように問うと、勇輝はややあってのそりと身を起こし、いかにもばつが悪そうに言い捨てた。 「わかんねえよ。今日は大丈夫だろ、多分」
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