智也【終】

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智也【終】

 携帯電話の通知音が車内に鳴り響いて、僕は雲を抜けた飛行機みたいに微睡(まどろ)みから覚めた。まだ眠い目をこじ開けて通知を確認すると、テキストメッセージが一件届いている。 〝ありがとう。今日のお昼にはそっちに着く予定です。この時期は毎年、お仕事が忙しいって言ってたよね。時間はあまり取れない?〟  僕は返信しようとした指を止めて、車のハンドルを握った。うたた寝を始めて、もう二十分も経っている。早く配達と仕入れを済ませなければ、予定の時間に間に合わなくなってしまう。  海岸沿いの国道を、仕事用のバンで軽快に走り抜ける。車の窓はもちろん全開。今夜は毎年恒例の夏祭りが催されるだけに、花火会場は準備に大わらわのようだ。  そのまま国道を五分ほど進むと、潮の香りが一段と濃くなる場所がある。その辺りが、僕たちの秘密の砂浜。別に懐かしくはない。今でも毎年、ここで花火を観ているから。  高校卒業後、僕は実家を離れて都会の大学に進んだ。そのまま都会で就職して、やり甲斐のある毎日を過ごしていたけれど、やっぱり何か物足りなくて結局実家の和菓子屋を継ぐことにした。  後悔はまったくしていない。だって和菓子作りは、会社の仕事よりずっとサイエンスで僕好みだから。餡子炊き、砂糖や塩の加減、練り切りの模様の考案。どれもこれも推論と実験の繰り返しで、僕の探究心を余すところなく満たしてくれる。まさに和菓子作りは、どれほど研究を重ねても果てが見えない宇宙そのものと言っていい。  勇ちゃんは体を使うのが好きだからって、大型自動車や重機の免許を取って、今は建設現場で奮闘しているみたいだ。そのうち自分で土建屋を(おこ)すなんて言ってたけど、実家の跡継ぎはどうするつもりなんだろう。やっぱり弟に任せちゃうのかな。  そしてあーちゃんはというと、大学受験のため一年浪人して、僕と同じように地方の大学に進学した。でも僕みたいに進学先で就職したりせず、卒業後はすぐ故郷に戻ったみたいだ。理由は言うまでもなく、勇ちゃんがこっちに居たから。その後、勇ちゃんの仕事の都合で、今は二人とも隣の県に移り住んでいる。二人が結婚したのは、ちょうどその頃だ。  高校三年のあの夜がなければ、もしかすると二人は結婚していなかったかもしれない。もしそうなら、僕たち三人の仲はあのまま消滅していただろう。そんな想像をするたび僕は今でもぞっとしてしまうのだが、同時に自分が果たした役割の大きさを誇らしくも思う。  あの年の夏休み直前、花火を十日後に控えた夜に、あーちゃんは突然メッセージをよこした。用件は、三人で花火を観ようという誘いだった。そして彼女はメッセージの最後に、僕に頼み事を託した。その頼み事とは、勇ちゃんの気持ちをそれとなく訊いてほしい、というものだった。  頼まれた僕がどんな心境だったかは、わざわざ説明する必要なんてないだろう。あーちゃんが好きなのはやっぱり勇ちゃんで、僕のことなんてはなから眼中になかった。そのことを知ってしまうだけならまだしも、この僕に勇ちゃんの気持ちを訊けと言う。もはや拷問だ。だから僕は、あーちゃんにこう返した。花火当日に直接訊くから、あーちゃんは遅れるふりをして、陰で僕と勇ちゃんの会話を聞いていてほしい、と。  僕を間者として放ち、勇ちゃんを騙した。あーちゃんは今でもそう思っているだろう。でも真実は違う。本当に騙したのは僕で、二人は今もなお、僕に騙されたことに気づいていない。  あの夜、僕には始めから勝ち目なんてなかった。十日前、すでにあーちゃんの気持ちを知ってしまっていたし、勇ちゃんの本心だって僕の目には透け透けのガラス同然だった。でも、この二人は放っておいても完全にくっつくことはない。まるで素粒子物理学における電荷が同じ粒子のように、近づいてもすぐに反発しあってしまう。必要なのは、反発しようとする電磁気力よりも強い相互作用。つまり、強い力を媒介するグルーオンだ。  だから僕は、二人にとってのグルーオンとなった。僕たち三人で構成された原子核がバラバラに壊れてしまわないための、決して切れない絆としての存在。そのために僕は、無駄だと知りながら自分の正直な思いを二人にぶつけた。僕が必死に本心を打ち明けたのだから、さすがの二人も素直にならざるを得ない。それがどんな化学反応を起こしたかは、のちに仲の良い夫婦となった二人を見れば一目瞭然だ。  ただ、あーちゃんを諦めてもう十年も経つというのに、僕は未だに独り身だ。あーちゃんという太陽は、僕にはあまりにも眩しすぎた。だから僕の胸中では、今も君の笑顔が光り輝いているし、君への思いは胸の底にずしりと溜まったままだ。あーちゃんは、E=mc²という等式を知っているかな。この等式を簡単に説明すると、質量とエネルギーは等価であり、ほんのわずかな物質にも膨大なエネルギーが秘められているってこと。  つまり僕は、君への膨大な思いを今も質量として保存し続けているんだ。この質量をすべてエネルギーに変換し尽くすには、まだまだ時間がかかりそうだよ。だから今の僕の太陽は、あーちゃんではなく、うちの店のお天道最中ってことにしてる。こいつに胸の中のエネルギーをありったけ注ぎ込んで、いつか胸の底の重みがなくなったら、そのときは僕も他の誰かを好きになれるんじゃないかな。  僕はつくづく、あーちゃんを騙してばかりだな。さっきのメッセージも本当は返信してあげたいんだけど、僕は二人が思っているほどお人好しじゃないからね。今日の仕事を終えた僕が、どんな予定を立てていると思う? 二人がそれを知ったら、一体どんな顔をするだろう。  君たちが泊まるのは、いつもの宮本楼だろう? 実は僕も今夜、宮本楼に部屋を取ってあるんだ。今夜はあの頃みたいに花火を観て、その後みんなでたっぷり馬鹿話をしよう。そういえば、あーちゃんたちには小さい子もいるんだったね。だったら子供たちが夜中に怖がらないよう、とっておきの話を披露するよ。  なんとフナムシの最大の天敵は、鳥や魚じゃないんだ。フナムシが最も恐れるその生物の名は、宮本勇輝。そう君たちのお父さんだ。お父さんは小さい頃ね、お母さんが安心して寝られるように、この宿に入って来たフナムシを一晩中、一人で退治し続けたんだ。それくらいお父さんは、小さい頃からお母さんのことが大好きなんだよ。 (了)
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