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三話 カノくんは精神安定剤
寮のある駅から電車を乗り継ぎ、萬葉町へとやって来た。週末の繁華街は、観光客と飲み目的の客でごった返している。まだ十八時前だというのに、既に酔って声が大きくなっている若者や、スーツ姿のサラリーマン、ホストみたいな男も歩いているが、若い女も多い。店の関係者らしい女、地雷系ファッションの若い女。まだ学生じゃないのか? と疑ってしまうような少女たち。誘蛾灯にひかれる蝶のように、ネオン溢れる街に人が溢れている。
(また、来てしまった……)
ピカピカに輝くネオンの看板を見上げ、清はゴクリと喉を鳴らした。カノに逢いたい一心で、萬葉町へとやって来たのは良いが、怖気づいたのか、脚が動かない。一歩進めば繁華街というところで、足がすくんでしまった。歩道に立ち尽くしたまま、自身の足を見下ろす。
(いやいや、ここまで来ておいて――……)
ブラックバードは萬葉町の中でも奥まった方にある。こんなところでウロウロしていても仕方がない。それなのに、何故か一歩も動けなかった。
(カノくんに行くってメールしたのに……っ)
週末行くと豪語していた清に、カノは約束を覚えていたらしくメールを送ってくれていた。だから今日は、何がなんでも行かなければならないのに。
「何でだよっ、クソっ……」
ぐずっと鼻を啜って、泣きそうになる。今日は指名するって決めていたのに。カノの笑顔をまた見たいと思っていたのに。
「動けよっ……!」
乱暴に足を叩いて、無理やり動かそうとした、その時だった。スマートフォンの着信音が鳴り響く。慌てて画面を見ると、カノからの電話だった。
「も、もしもしっ!?」
『あ、清くん? 今何処かなって。そろそろ萬葉町着いた?』
「カ、カノくん~~~~~っ!!!」
カノの声に、思わずだばーっと涙があふれる。電話の向こうで、カノが驚いたような声をした。
『え? どうしたの? 何かあった?』
「うっ、ううぅっ……! 俺っ、早くカノくんに逢いたいのにっ……、脚が動かなくてっ……」
『――今どこ?』
「えっ……」
場所を問われ、清は集を見渡した。すぐ近くの交差点に、警察署がある。
「えっと、萬葉町四丁目交差点……。交番のすぐ傍……」
『じゃあ、迎えに行くから待っててよ。同伴しよ? まあ、ちょっとお金かかっちゃうけど……』
同伴。その言葉に、一気に血圧が上昇する。
「いっ、良いよ! 全然!」
『そう? それなら、良かった』
(カノくんと、同伴!)
一気に気分が高揚し、清は鼻息を荒くした。同伴すれば、間違いなく指名出来る。同伴料金三千円は上乗せされるが、どちらにしてもカノの実績になるのであれば、清としても問題ないのだ。今日はカノにお金を使いに来たのである。
電話を切り、火照った顔を両手で抑える。先ほどまで動かなかった足で、飛び回りたくなってきた。
(うわぁ。同伴。しかもカノくんから誘ってくれたの、メチャクチャ嬉しい。ああ、もっと早い時間だったら、デートも出来たのに)
営業開始時間である十八時には、店に着かなければならない。あと三十分もないのだから、お茶だって出来ないだろう。残念だ。
今日はどんな格好だろうか。そう言えばスーツで来てしまったが、変じゃないだろうか。考えながらビルの壁に寄り掛かる。ちょっと良い恰好なんて、スーツくらいしかない。女の子みたいにワンピースやシフォンのスカート、レースのついた洋服なんて、男子にはないのだ。
(うーん。アクセ? とか着ける? 時計を良いヤツにする? それとも靴か?)
女の子ウケするファッションはしてきたつもりだ。いわゆる『意識高い系』を意識して、それでも身長が高くないから無理のない範囲でやってきた。だから、メチャクチャダサいというほどではないと思う。だが、男子ウケするファッションは解らない。カノの好みも解らない。解らないことだらけである。
「清くん!」
そんなことを考えていると、雑踏の中から金色の髪をなびかせ、カノがやって来た。一人だけスポットライトを浴びたみたいに、キラキラしている。周囲には他の店のホストも歩いているが、カノと比べると見劣りする。カノだけ、別世界の住人のようだ。
「カっ、カノくんっ!」
カノに逢えた喜びで、ドキドキと心臓が高鳴る。やはり、美しい。
「来てくれて嬉しいよ」
「うっ、うん。俺も、逢えて嬉しいっ……」
ドキドキする心臓を押さえ、カノを見上げる。カノは苦笑して、清に手を差し出した。
「どうぞ。今日は『姫』だからね」
「あっ、ありがとうっ。迎えも、ありがとうね」
「良いよ。同伴して貰えるし。オレはむしろラッキー。清くん、萬葉町が怖くなっちゃった?」
「あー……、そう、なのかな……」
カノが手を取ってくれれば、もう道を渡っても怖くなかった。震えていた足は治まり、今はむしろ足取りが軽い。
「オレはこの街が好きだからさ。怖い記憶が残っちゃうのは、ちょっと残念。だから、上書きさせてね」
「もっ、もちろんっ……!!」
イケメンオーラにやられ、頭がクラクラする。
夜だというのに、萬葉町はネオンの明かりでまばゆいほどに明るく、昼間よりも人が多く犇めいている。喧騒と酒と、食べ物の匂い。妖しい雰囲気の看板に、淫靡で魅惑的な店の人間たち。
どこか異世界に迷い込んだような感覚と、ふわふわした足取り。
清はその夜闇に飲み込まれるように、萬葉町の奥へと歩いて行った。
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