18人が本棚に入れています
本棚に追加
八
▶︎明るい家族計画【16】
ここ数日、無言電話の回数が減っているような気がする。どうやっても私は折れないと気づいたらしい。ただ、彼女がどれほど無力感を味わったとしても、電話やメールが簡単になくなることはないだろう。
私にだって、あなたの気持ちはわかる。あなたにとって私は、既婚者と知りながら自分の夫をたぶらかした、薄汚い泥棒猫だ。しかもその泥棒猫が、自分の夫を利用して、ささやかながらも幸せを摑もうとしている。どんなに出来た妻でも、こんな不条理を簡単に許せるわけがない。
本人に伝える機会は一生訪れないと思うけど、あなたには本当に申し訳ないと思ってる。私の存在を知ってしまったために、あなたたちはもう、これまでの夫婦関係には戻れなくなってしまった。あなただけのものだと思っていた夫が、実はそうではなかった。この屈辱の炎は、多分生涯消えることはない。半分は私のせい。本当にごめんなさい。
でも、これだけは言わせてほしい。あなたも女ならわかるはず。好きな人の子を授かることがどれほど幸せで、どれほど眩しい希望になるか。私だって驚いてる。まさか自分がこれほど変わってしまうとは、我が子がこんなにも可愛いものだとは、思ってもみなかった。
だから、私がこの子のために死に物狂いになる気持ちだって、本当はわかっているはず。そして、わかるからこそ余計に辛い。誰かのせいにして、そこに憎しみをぶつけ続けることができなくなってしまうから。
私はあなたに、償いをすることはできない。この子を諦めるわけにはいかないし、私が他の何を差し出しても、あなたは納得しないはずだから。だから私は、私の幸せを全力で追求する。何としてもこの子を幸せにしてみせる。虫がいい考えだと思うかもしれないけれど、そうすれば少なくとも、私とあなたたちの間に生じたこの軋轢が無駄ではなくなるから。私たちの不和が、それ以上の幸福を生んだ。そんな結末。
それでもやっぱりあなたは納得しないと思うけど、私にできることはこれだけ。だから許して。彼を好きになってしまった者同士、いつかは分かり合えると、私は思ってる。
▶︎明るい家族計画【21】
あいつからの連絡はすべて、着信拒否にしている。外出はほとんどしていない。どうしても出なければならない通院や買い物のときは、徹底的に変装をして、周囲への警戒も怠らない。その甲斐あって、ここしばらくはあいつからの暴力や嫌がらせに遭わずに済んでいる。
でも、今日はさすがに驚いた。まさかあの不器用そうなあいつが、私宛てに手紙を書くとは。封筒に書かれていたのは私の名前だけで、住所はなく、切手も貼られていない。どうやらここまで来て、手紙を郵便受けに入れただけで帰ったらしい。ずいぶんと殊勝なことだ。
外見はあんななのに、あいつの字は意外にも整っていて丁寧だった。ただ、文章は思った通り下手くそだ。構成にまとまりがなく、何を言いたいのかいまいちよくわからない。一応、私を蹴ったり殴ったりしたことは反省しているようだ。そうでなくては困る。好きになった相手が謝ることもできない野蛮人だとしたら、私は自分の見る目や感性を疑わなくてはならなくなってしまう。
家庭の空気は相当冷え込んでいるようだ。あいつらにとっての問題は何一つ片づいていないので、無理もない。その辺に関しては、私の出る幕ではないので好きにすればいいと思う。でも、できることなら投げやりになったりせず、これまで通りの家庭に戻ってほしい。壊すきっかけを作った私が言うのも何だが、辛い思いをしている人を想像するのはやっぱり嫌だ。
手紙には性懲りもなく「できれば子供は諦めてほしい」と書かれていた。ただ、おそらくこの文面は奥さんの差し金だろう。その証拠に、手紙の最後尾の欄外に「何か要望はあるか」という一文が走り書きで書き足されていた。不覚にも涙が出た。ふざけるな。奥さんに頭が上がらないお前に何ができる。そんなことより今は、疲弊した奥さんをどう元気づけるかのほうが大事だろ。今さら私に優しくするな。そんなだからお前は、女を二人も泣かせてしまうんだ。
▶︎明るい家族計画【28】
娘を産んだ翌日、生まれたことをあいつに知らせてやった。当てつけのつもりだった。すると次の日、あいつは何を思ったか、馬鹿面を下げて病院に見舞いに来た。何を話すでもなく、穏やかな目をして我が子の赤いしわしわ顔を覗き込むあいつ。何が目的だったのかはよくわからない。取りあえず病院で暴れなくてよかった。
名前は美月にしようと思う。そう言ったら、静かな声で「いいんじゃないか」と答えてくれた。響きが可愛いでしょ、と続けると、視線を泳がせながら少しだけ微笑んでた。
▶︎明るい家族計画【30】
玄関のドアスコープを覗いたら、あいつが神妙な顔をして立っていた。しかもいつもの普段着ではなく、スーツにネクタイといった正装で、妙にしゃちほこばっている。美月が生まれて一か月。着信拒否を解除したのに一度も連絡をよこさないと思ったら、まさかこんな格好で現れるとは。
彼の話は簡潔だった。認知はしない。その代わり、新築の建売住宅が買えるくらいの和解金で手を打ってくれと言う。私だって彼の立場くらいわかっている。きっとこれが、家族から引き出せるぎりぎりの譲歩。
最大の願望だった出産は成し遂げた。金銭をたかろうなんて思っていないが、現実問題として美月を育てるにはそれなりのお金が必要だ。条件を呑んでおいたほうが、奥さんも安心するだろう。それに何より、これ以上揉めたって仕方がない。
ただ、もしかすると彼が最後に口走った頼み事は断ったほうがよかったかもしれない。彼は帰り際に「また娘を見に来てもいいか?」と呟いた。
そこには、私が愛した穏やかな彼がいた。しかもその頼みは、美月の父でいてほしいという私の切望とも重なっている。また豹変するかもしれない、という不安がないわけではない。でも、どうしても断れなかった。本当のことは打ち明けられないにしても、お父さんがたまに会いに来てくれることには変わりない。美月もきっと喜んでくれるだろう。
最初のコメントを投稿しよう!