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 母は現在も、私が生まれてすぐに買ったという建売の一戸建てに独りで住んでいる。母曰く、父は私が生まれる前にこの世を去ったそうだ。でも私は、それが事実ではないことを子供の頃から知っている。  私の記憶の隅には、ある中年男性の姿が今もしつこくこびりついている。月に一、二度、私と母が住む家に泊まりに来ていた、肩幅が広い小太りの男。母はたまに遊んでくれたり、小遣いをくれたりするその男を、大切な友達だと言って来るたびにもてなしていた。  私が男の素性を知ったのは、中学に上がってまもなくの頃だった。うちでは母と夫婦のように振舞っていたその男は、隣の市で土建屋を営んでいる妻帯者だった。その頃になると男は、前にも増して頻繁にうちに泊まりに来るようになっていた。しかしなぜか、私が中学二年生になってしばらくすると、ぷっつりと姿を現さなくなった。母は短気で気が強いだけに、手を焼かされた男はとうとう母に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。  母と男は子供の私から見ても、仲睦まじい男女と言うより、愛憎入り混じった腐れ縁のように見えた。母は夕食時によく、男の前で自分たちの立場や生活を嘆くような皮肉を言った。そうなると私は早々に自室に逃げ込んでいたが、狭い家の中を仕切っているのは薄い壁だけだ。母と男の話し声は、少しも遮られることなく自室の私の耳にまで届いていた。  男は、最初のうちは黙って母の皮肉や愚痴を聞いているのだが、酒量が増えるにしたがって反論する頻度が高まっていき、遂にはいきり立った母と怒鳴り合いの喧嘩になるのが常だった。大声で罵り合うだけならまだいいのだが、頭に血が上って互いに手が出ることも少なくなく、ここまでこじれると私は自室のベッドで布団を頭から被り、嵐が過ぎ去るのを震えて待つしかなかった。  普段は母のことなど考えるのも嫌だったが、このときばかりは母に同情せずにはいられなかった。揉めに揉めた末の翌朝は、母の顔や腕にあざができていることがあったからだ。明らかに母は、男の手によって傷つけられていた。この世にそんなことをする男がいると思うだけで、私の義憤と憎悪は激しく燃え上がった。いつかあの男に復讐してやる。そう思って、部屋の押入れに金づちを忍ばせていたことさえあった。おそらくそういう見境のなさは、あの猛々しい母から受け継がれてしまったに違いない。  そんな私が最悪の事態に至らなかったのは、それほど激しい衝突がごく稀だったからだ。大抵は派手に怒鳴り合ったあと、嘘みたいに静かになって肩を寄せ合っていることが多かった。散らかった居間もそのままに、二人して寝室にしけこんでしまう展開には毎度呆れたが、それでもあざを(こしら)えるまでこじれるよりはずいぶんましだった。ただ成長するにつれて、自分もこうやって作られたのかもしれないと想像するようになると、中学生の私は両手に金づちでも足りないくらいの吐き気に襲われていた。  私はその男のせいで、子供の頃から肩身の狭い思いをしてきた。友達の家には当たり前のようにいる父が、自分の家にはいない。それだけでも胸を締めつけられるほどの引け目だったというのに、ある時期からそれは堪え難い憎悪に変わった。愛人の子。どこからともなくそんな陰口が聞こえてくるようになったのは、小学校中学年くらいからだったと思う。  母に男のことを訊ねても、友達の一点張りで何一つ真実を語ってくれない。その素っ気ない態度が、私の心をさらに孤独へと追いやった。母との間に見えない壁ができ始めたのも、ちょうどその頃からだ。そして母は、私が成人して結婚相手を見つけてくる歳になっても、未だにあの男の真実を語ってはくれない。どう考えても親として失格だ。私だって、唯一の肉親を相手に大人気ないと思うこともある。でも、だからといってそんな母に易々と心を開けるわけがなかった。  母の容態は思ったより深刻だった。病院で行われた検査の結果は、外傷性のくも膜下出血。事故から二時間は経っているというのに、未だに意識は戻っていない。医師からは重い後遺症も覚悟してほしいと言われ、私は心臓を冷たい手で撫でられたような気持ちになった。  私が母の介護? ということは同居? 間もなく直樹との新婚生活が始まるかもしれないというのに? 娘にいたたまれない少女時代を強いた上、自由な未来まで奪うなんて、自分勝手もここまでくると、もはや罵る気さえ起きない。  母は昔から、夜の街で小さな店を切り盛りしている。唯一の従業員である彩の話によると、母は今夜、店を出てすぐに足を滑らせ、階段を派手に転げ落ちたらしい。仕事中に呑み過ぎたことが祟ったらしいが、母が仕事で泥酔したなんて話は今まで聞いたことがなかった。  どうやら母は今夜の客と()りが合わず、口論になりかけたため普段より多く呑んでしまったらしい。その客は、成人した自分の息子に「夫婦別姓くらいすんなり受け入れる、優しくて器の大きな男になれ」と諭してやったと、自慢げに話していたという。母はその話がどうしても許せなかったようだ。それはそうだろう。幸せな結婚をして姓を変えたいという母の念願は、とうとう叶えられないままになってしまったのだから。その客に暴言を吐いたり、殴ったりといった、短気な母の暴走がなかっただけでもよしとしなければならない。  意識が戻らないため、母はしばらく入院することになった。病院から、下着やタオル、歯ブラシなど、身の回りのものを揃えてほしいと頼まれたので、気は進まないがこれから実家に向かうしかなさそうだ。母とは極力関わり合いたくなかったが、親族と呼べる者は娘の私しかいないので仕方がなかった。  いっそあの土建屋に押しかけてやろうかとも思ったが、深夜だし、母のために心身を擦り減らすのも癪に(さわ)るので、すぐに思い止まった。ただ、もし噂が本当なら、あの男は私の父だ。母の世話が(わずら)わしくなってきたら、連絡してみるのも悪くない。母とはすっかり縁が切れているようだが、きっと私のことは無下にできないだろう。うまくいけば、面倒をすべてをあの男に押しつけられるかもしれない。
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