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▶︎明るい家族計画【10】  予想通り、あいつは真昼間だというのに、また私の部屋の前に現れた。多分、昨日のことを謝りに来たのだろう。ドアスコープから覗いた感じでは、私との昨日のいざこざが気になって仕事が手につかず、かといって家族がいる家にもいられない、といったところか。  私が居留守を使っていると、あいつは玄関のドアを蹴ったり、玄関前にタバコの吸い殻をまき散らしたりした。やることがいちいちみみっちい。どうやら通報が怖くて、大声を上げるほどの嫌がらせは考えていないらしい。つくづく器の小さい男だ。結局あいつは玄関前で缶ビールを五本も飲み、夕方になるとおぼつかない足取りで帰っていった。  いなくなったことを念入りに確認して、食料品などを買うために外に出た。途中、近所をうろついているあいつを見つけた。外出している私が帰って来る時間だと考え、この辺りで待ち伏せでもするつもりなのだろうか。顔はアザを隠すために、マスクと帽子とサングラスでくまなく覆っている。服も極力露出の少ない、ゆったりとしたものを着てきた。万が一あいつに見つかっても、そう簡単には私と気づかないはずだ。  でも、油断は禁物。これからは買い物も深夜にしたほうがいいかもしれない。こんな生活がしばらく続くと思うと、ただでさえ滅入っている気持ちが余計に沈んでしまいそうだ。 ▶︎明るい家族計画【11】  もう何日も無言電話が続いている。仕事場から休暇をもらい、部屋にいる時間が増えているからなおさらタチが悪い。非通知や、公衆電話の着信は拒否するように設定した。でも次から次に、知らない電話番号から電話がかかってくる。どんだけ暇なの? その時間、無駄じゃない? こういうのを人生の浪費っていうの、知ってる?  中傷メールも一日五十件くらい届く。拒否してもアドレスを変えて送ってくるから、完全にいたちごっこだ。誰の仕業か想像はつくけど、だからといって止めさせられるわけじゃない。この陰湿さ、執念深さは女のものだ。たとえ私が直接文句を言ったって、とても止められる相手じゃない。  ずっと携帯の電源を切っておくわけにもいかないし、今は簡単に番号変更もできない。もちろん携帯を買い換える余裕なんてない。このメールを書いている間にも、無言電話が二件、不審メールが三件届いた。もはや病的。着信やメールは無視すればいいけど、問題は私のメンタル。相手をここまで狂わせてしまった罪悪感が、日を追うごとに心を蝕んでいく。  寝てる間は携帯の電源を切ってるから、着信自体は気にならない。でも気持ちが高ぶってしまって、最近はほとんど眠れない。凄まじい憎悪を向けられている恐怖。でもこっちだって折れるわけにはいかない。私だけならどうなろうと構わないけど、今回はこの子の命がかかっている。  今さらながら、独りで部屋にこもっているとつい考え込んでしまう。私は本当に、この子を産んでもいいのだろうか。こんな私が、この子を自分一人で育てられるのだろうか。この子が理不尽な嫌がらせを受けたり、父がいないことで辛い目に遭ったりしないだろうか。考え始めるときりがない。寝ても覚めても、最悪の未来ばかりが目の前にちらついてしまう。きっと誰にも会わず、毎日強烈な憎悪に晒され続けているからだ。  この状況が精神的によくないことはわかっている。だけど、こうして部屋にこもるのがダメなら、他にどうしろと? ▶︎明るい家族計画【13】  部屋の呼び鈴を鳴らしたのは、あいつじゃなくて奥さんだった。最初はあいつの差し金かと思ったけど、部屋で話を聞いたらそうじゃなかった。どうやら彼女も、ずいぶん辛い思いをしているみたい。  彼女は旦那の不倫相手である私の前で、いきなり土下座をして見せた。そうやって涙を流して、私にお腹の子を諦めろと迫る。私はもう少しで、涙ながらに被害者しぐさを見せつけてくる不躾な彼女をぶん殴ってしまうところだった。どいつもこいつも勘違いしてる。どこの世界に「泣いて土下座しますから死んでください」と言われて、素直に死ぬやつがいる。未だに事の本質に気づかないなんて、もしかしてあいつの家族はみんな、この子や私のことを人間と思っていない?  確かにこの世界には、悲しいけれど望まれない命というのもある。性被害が原因でできてしまった子を産みたい女なんていないし、それでも命は何より尊いんだから産めなんて言う人がいたら、そいつは偽善者以外の何者でもない。昔だと、人の姿にさえなれなかった重度の奇形の子は、神隠しにあったり、産婆さんが内密に対処したりしていたみたい。残酷かもしれないけれど、本人さえ幸せになれない命なら仕方ないと思う。  でも、この子は違う。あんたたちからすると嫌なことを思い出すだけの邪魔者かもしれないけれど、言ってみれば、たったそれだけのことでしょう? だったら一生、この子と私には関わらなくて結構。私は初めからそう言ってる。しかもこの子は、誰にも望まれていないわけじゃない。私にとっては、自分以上に大切な存在。私は何があってもこの子さえいれば幸せだし、この子は絶対に私が、私以上に幸せにしてみせる。まあ、私が思い描く幸せなんて、普通の人が見ると相当低いハードルかもしれないけど。  だから私は、彼女の頼みをきっぱり断った。そうしたら彼女は、手のひらをくるっとひっくり返すみたいに豹変した。いきなり張り上げ始めた、聞くに堪えない罵声の数々。淫乱だの、痴女だの、クソビッチだの……。よくもまあ、あれほど下品な言葉がスラスラと出てきたものだ。身に覚えでもあるんじゃないの、って言い返したら、今度は顔を真っ赤にして金切り声を張り上げる始末。とうとう怒りで言葉を忘れちゃったみたい。もしかして図星だった?
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