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 私は、すっかり涙に濡れてしまった頰を何度も拭った。母が目を覚ましたら、何と言って出迎えよう。言いたいことがあまりにも多すぎて、とてもその場では語り尽くせそうにない。  それにしても神様は意地悪だ。母は誰よりも純粋に、健気に生きてきた。それなのになぜ、今夜のような不幸に見舞われなければならなかったのか。確かに不倫という過ちはあったかもしれない。でも一方では、すべてを懸けて我が子を守り通す真摯な一面もあった。その上、苦労しながらも一人で私を育て上げてくれたではないか。母には、もっと報われる未来こそ相応しい。私はこれまで母に対して見せてきた冷ややかな態度を悔いずにはいられなかった。  そのとき、不意にけたたましい電子音が鳴り響いた。慌てて音の出どころを探す。着信音を響かせているのは、私の携帯電話だった。画面に表示されている見慣れない番号。たちまち全身が怖気に襲われる。この番号は確か、病院から伝えられたナースステーションの番号だ。  恐る恐る電話に出ると、看護師の神妙な声が酷薄な現実を告げた。 「お母様の容態が急変してしまって。今、どちらにいらっしゃいますか? できればすぐこちらにお越しいただきたいのですが……」  私は放心したまま、はいとだけ伝えて電話を切っていた。嘘だ。私には、母に伝えたいことが山のようにある。まだ何も母に伝えられていない。私が今まで母に向けてきたのは、()ねた態度や非難の視線、生意気な言葉ばかり。そんなの絶対におかしい。母に与えられるべきは、もっと報われる未来。もっと愛情に満ちた親子関係。もっと明るく幸せな生ではないのか──。  ひとしきり泣き崩れ、ようやく嗚咽が治まってきたところに、メッセージアプリの着信音が割り込んだ。携帯電話を取り上げて通知を確認する。こんな深夜だというのにメッセージを送ってきたのは、曲がりなりにも今夜、私にプロポーズをしてくれた直樹だった。 「今夜は悪かった。お母さんの具合どう? 知り合いに安くやってくれる葬儀屋がいるから、必要ならいつでも言って」  もう少しで携帯電話を床に叩きつけてしまうところだった。悪気がないことはわかっている。わかってはいるが、毎度のことながらこの無神経。寝不足の疲れもあいまって、イラつかずにはいられない。  私はもう一度母のメールを読むため、古い携帯電話を手に取った。母は苛烈な運命に立ち向かいながらも、堪忍袋の口を少しも緩めずに耐えてきた。その凛々しく真っ直ぐな生き様を読み返せば、直樹への苛立ちも少しは水に流すことができる気がする。  メール画面を開いたところ、奇妙なことに気がついた。未送信フォルダに、書きかけのメールが一件残っている。日付は五年前。ちょうど私が実家を出た頃だ。とっくの昔に解約された携帯電話に書き込まれた、送信する意図のないメール。何らかの作意を感じないわけにはいかない。  その未送信メールの件名は『明るい家族計画【美月へ】』。どうやら母は、いずれ私がこの携帯電話を見つけ、中身を読むだろうと見越していたようだ。 ▶︎明るい家族計画【美月へ】  あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世にいないのね。でも悔いはありません。立派で可愛い女性に成長したあなたの巣立ちを見届けられたからね。  でも正直、ここまで来るのは大変だった。あなたを産むまでも、産んだあとも、楽な日は一日もなかった。だからこれからは気楽に、自由に生きようと思います。あなたも家を出て、退屈になってしまったことだし。  ところで私はどんな死に方をした? やっぱりろくな死に方じゃないよね。仕方ないか。だって私の人生は、謝らなければならないことばかりだから。そう、美月にもちゃんと謝らないと。今まで黙っててごめんね。  あなたが中学二年生のとき、大切にしていた下着がなくなったのを覚えてる? あれ、本当はね、風に飛ばされたんじゃなくて、私が庭に埋めたの。  あいつは美月のことをずっと変な目で見てた。こっそりお風呂も覗いてた。自分の娘だってのにね。しかも、美月が修学旅行に行っているのをいいことに、私の目を盗んであなたのタンスを漁ったの。その後ろ姿を見た瞬間、愛情が一気にひっくり返った。まるでオセロの大逆転みたいに、真っ黒に。  仕方なかったのよ。ぎゅっと摑んだまま放さないんだもん。だから一緒に埋めたの。  美月は彼氏いる? それとも、もう結婚してるかな。どちらにしても、あなたは私に似て短気なところがあるから、これだけは覚えておいて。明るい家族計画の秘訣。それはね、かっとなったらまず深呼吸をすることよ。 (了)
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