やる気

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 私は今、ちっともやる気が出ない状態です。  やる気さえあれば、頭の中やNolaなんかで構想中の物語を本文に表すことができるんですが、それができないんです。  時には、執筆から離れて、趣味の作曲に没頭したこともありました。おかげで、人生において第一に注力すべき小説をそっちのけにして、カバーアルバムの構想さえ出来上がってしまいました。  私はすっかり困惑しています、と言うと他人事のように聞こえますが、実際そういう風に感じています。何しろ、私は釈迦の説いた「無我」の定義について物凄く共感しているのです。  よく、    「無我夢中で駆け抜けた」  「無我夢中で執筆した」  なんて表現を日常的にしますが、釈迦の教えにおいては少し違います。  「我ハ無イ」  と書くくらいですから、読んで字のごとく、「自分なんか存在しない」という意味になんです。  自分なんかいないんだから、今生きている自分というものは、自分のことを第三者目線から傍観しているにすぎない、ということらしいんです。  自分で考えていても訳が分からなくなるし、哲学の専門家やお坊さんにバカにされたらイヤなので、やる気の話に戻ります。  やる気は、自然に出るのを待つのではなく、とりあえず何かにチャレンジしてみると出るものだよ、という話はよく聞きますね。  私も、なるほどその通りだな……、と思う時があります。  しかしながら、今の私はそうではありません。  執筆をしようとパソコンを立ち上げても、少しも文章を書こうと思わないのです。  デスクトップの背景画像に見入ったり、デフォルトで搭載されているソリティアをやりこんだり、今まで作ったオリジナル曲を再生したりするほうが、自然と脳みそやタイピングの指が動くのです。  そんなんじゃ、どうしようもねえな……。  一生小説家になんかなれねえわ……。  私は、自分に対して深く絶望しているのです。  しかしながら、先人の教えというのは適材適所というか、都合のいいものが頭に浮かんでくるものです。  中国古代の思想家である老子は、「無為自然」という言葉を残しました。私の解釈ですと、    「行為無キニシテ自然タルベシ」  って感じですかね。(自然タルベシって何だよ……?)  つまり、自分から無理なアクションは起こさずに、ふと頭に浮かんだアイディアや感情、考え方なんかに任せて生きてゆくべきと唱えたらしいのです。(これについても、専門家に『ちげーよ、バーカ』って言われるとショックなので、このくらいにしておきます)  だから、頭に浮かんだとおりに、私なりの創作活動にいそしむべしと思う自分がいる一方で、「こんな回り道してて、いつになったらプロの小説家になれるんだ」と焦って不安に陥る自分がいる、ということなのです。  板挟みにされると、誰でも窮屈な思いはするものです。  心の中に置き換えれば、それは「ストレス」にあたります。  おそらく、私のやる気が出ない原因というのは、コイツのせいなんじゃないかと思います。  本当に、現代社会において邪魔な存在です。  しかし、そもそもなんで私は、「回り道していて小説家になれない」などと不安に陥っているのでしょうか?  執筆の時間が欲しくてアルバイトで生活費を稼いでいるのに、その時間を執筆に充てようとしない。これが答えだと思います。  この約束事において、ヘッドホンをつけながら画面上で音符を書いている時間なんか、1秒もあってはならないのです。  なぜそこまで、頑なに契約にこだわるのか。  私の元来の性格なのかもしれませんが、おそらく日常生活でのストレスが原因なのでしょう。  回りくどく書き連ねてきましたが、結局はストレスによって極端な思い込みを強いられた、ということなんでしょうね。  あ~あ、山の中にでも旅行がしたい。  山梨県大月市にある、猿橋にもう一度行きたい。  青々とした広大な森と、まるで海のような唸り声を上げる桂川とが織りなす、あの絶景……。  そうだ、ナウスのみんなに行かせてみようかな。  なんだか、やる気が湧いてきたような気がします。
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