出港前

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出港前

オゼ    甲板に出ると、さっきまで朝だった海は、もう真昼と遜色のない光を乗せて波を揺らしていた。  アオチが正気に戻ってくれて本当に良かった、という思いと、今ならまだこいつを置いて行ける、という気持がせめぎあい、さっきから胸の中で船体に当たって弾ける波のような音がしている。  海の方を向いて、オオミを真ん中に並んで立つ。  寒そうに風で膨らむ上着を胸の前で寄せるオオミの表情が、風すら春のものに変えてしまいそうなほど暖かい。  会社では暗い表情しか見たことがなかったので、嬉しい発見だ。  その向こうのアオチは普段通り、冬でも日焼けしているような血色の良さと、生気に満ちた目を取り戻していた。  ふとさっきの死人のような男の乾燥した声を思い出す。 あいつはどこに行ったんだろう。 「明日の今頃は懐かしの地元ですね。三人で朝ごはんを食べてから別れませんか。やってるお店があればいいな」  引っ込み思案だと思っていたオオミが妙に積極的だ。この三角の船には人を素直にさせる効果もあるのか。  ふと視線を感じブリッジを見上げた。動かない人影があった。目を凝らしたが、光が反射して良く見えない。  後ずさりしながら確認する。あれは――。 「危ないです。滑りやすそうですよ、ここ」  オオミに声をかけられた。足元を全然気にしていなかった。 「ああ、そうだな。なんだか船に入ってからお前が一番しっかりしてるな。十歳も年下なのに頼もしいよ」  褒められるのに慣れていないのか、途端に下を向いて、足をこすり合わせたり、意味のない動作を始めた。自分には兄弟がいないけれど、こういう所が弟がいると言っていたアオチには放って置けないのかも知れないな。 「僕はもともとおしゃべりなんですが、人と距離を縮めるまで時間がかかるタイプなんです」 「おい、時間かかり過ぎだろう。俺と同じ部署で働いて何年目だ。未だによそよそしいじゃないか」  アオチが苦笑いで俺たちの方を見て口を挟んできた。冗談のつもりだったろうに、オオミは真剣な声で答えた。 「アオチさんには弱みを見せられないと思って、気張っていたんです」 「なんだよ、弱みを見せると付け込まれるのか? アオチは性格が悪いんだな」  俺こそからかうつもりで言ったが、オオミが気まずそうに黙りこんでしまった。アオチも辛そうな顔をしている。何だこの二人。この丸一日足らずの船旅で二人のことを理解できるだろうか。 「なあ、食堂で軽く何か食べないか? もうすぐ出港だろ。腹が減り過ぎて酔いそうだ」  その時、甲板にふと影が落ちた。鳥? はっとして空を見上げる。 「良かった、水鳥です。あの鳥に食べらていなかった」  オオミの心底安心した声が海風にもさらわれず、空に向かった。  それに応えて、助けを求めるよう切ない鳥の声が響いた。  汽笛――に聞こえた。この船はもう動き出しているのかも知れない。
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