鳥に救われる

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鳥に救われる

アオチ 「アオチさんはどうして鳥に癒されるんですか」  無理をしていることが、空気の振動から伝わるような声でオオミが言った。いつもなら「どうした? また死人が見えたのか?」なんて口にしているところだが、この船に乗ってからの短い時間でデリカシーが身に付いたようだ。気がつかないふりをして答える。 「子どもの頃に鳥に助けられた。今空を飛んでいるあいつらに良く似た鳥に」  正直に答える。そもそも俺は嘘が得意じゃない。これまでつき通せた試しがない。 「どういうことだ?」  淡々と聞いてくるオゼに、お前こそ鳥を掴まえたいなんてどういう心境だ、と言いたいところを呑み込んで続ける。 「迷子になって死にかけたんだ」  二人とも「え?」という顔をしている。 「ちょっと間違えた。迷子というかほとんど遭難に近くてな」 「聞かせてください」  オオミを落ち着かせるため、昔話をしてやるのは悪くない。どうせここから出るなと言われているんだし。  俺が椅子に座り直すと、オゼもそれに続いた。 「わかった。あれは俺が小学校低学年くらいの時なんだけど—―」  俺たちの町に、一年中観光客で賑わっている山がある。俺はその高さ三百メートルちょっとの山の麓に住んでいだ。 活発な子どもには丁度良い遊び場で、友だちと数人で入る時もあれば一人でも出かけた。積極的で明るい性格だったせいで誤解されていたが、実際俺は一人で山に入る方がずっと好きだった。  親には友だちと遊びに行くと言って何度も独りで出かけていた。心配そうな顔で見送られていたから、今思えばそんな嘘もバレバレだったとわかる。  深い木々の中、狭くなった空を見上げていると色んな物の形が浮かび上がってくる。枝で切り取られた青いキャンバスに、動物の形を良く思い描いた。もちろん鳥もだ。 俺が助けられたのは、そんな空想の中の鮮やかな空色の鳥ではないけれど――。 地面に目を向けるとキツネやウサギがいる日もあった。興味深々の目で俺を見るくせに、少しでも近づくと木の影に消えてしまうので、それこそ本当に存在する生き物なのかと不思議に思うこともあった。  それは晴れた冬の日だった。雪が太陽を反射して真夏の昼間より明るかったのを覚えている。  本当は冬の期間、山で遊ぶことは学校からも親からも禁止されていたが、俺には意味が解らなかった。 冬山は町よりも平和で俺に優しかった。友だちと一緒の時は、押し黙って山のふりをするくせに、俺一人の時はおしゃべりなくらい話しかけてくる。そういう所が好きだった。  ――その日はやっぱり何かに憑りつかれていたのかも知れない。  気がついたら空はもう半分藍色になっていた。こんな時間まで夢中になっていたことなんかそれまでなかった。いつも山の方が、そろそろ戻れと教えてくれていた。  急に不安が腹から広がって、居てもたってもいられなくなる。  知らないうちに走り出していた。何に追われているわけでもないのに、後ろを振り向いてはいけないような気がした。  慣れ親しんだ山の中で、こんな気持ちになるなんて信じられない。周囲を確認もせず、とにかく走り出した。  薄暗い山道の中、何度も雪や氷で滑っては転んだが、痛みを感じる余裕もなかった。  優しいと思っていた大人の暗い瞳を見た時のように、見慣れた木々が、雪が、空が表情を変えて俺に覆いかぶさってくる。  急に血の気が引くひんやりした感覚が背筋を通り抜け、足元がほんの一瞬浮いた。シャリシャリした雪で傾斜に全く気が付かなかった。右半身を下にして数メートル落ちていく。 ……もしかしたらそんなに長くはなかったかも知れないけれど、永遠に落ちて行く感覚がした。  実はこの年齢になるまで、あの傾斜にこすりつけた右半身ばかり怪我をしている。体育祭で骨折したのも右足、ドッジボールでヒビが入ったのは右腕、サッカーで転倒して頭を打った時だって。あの時の雪に呪われたのだ、と本気で信じている。  下まで滑り落ちた時、痛みに悶える前に野生動物のように上体を起こした。周囲があまりに異様だったからだ。  幻覚でなければ、あの時の雪の色はおかしかった。 赤く染まる雪。俺の血が飛び散っていたわけじゃない。そんな、ありふれた――と言ってはおかしいが、現実にあり得る風景ではなかった。 雪自体が発光していた。そう、血の色は外からのものではなく、雪の内側に蠢いていた。心臓の動きのように規則的に濃淡を変えるそれを見て確信した。――雪は生きている。薄々知っていたけれど、こんなに生々しく生きている姿を見せられるとは予想もしていなかった。  いつも冷たい感触のその奥に意志を感じていた。気がついてしまった俺を連れ去ろうとして機会をうかがっていたんだ。  どうしよう。雪の向こう側に連れて行かれたくない。全力で立ち上がり、とにかく逃げた。絶対に嫌だ、雪に溶けたくない。  いつもなら特徴のある木や岩が、俺の居場所を教えてくれるのに、雪がそれを許さないように全てを覆い隠していた。  ここ、どこだ? もしかして俺はもう既に雪の内側にいるのか? 心の隅から諦めが顔をのぞかせた時だった。  雪の血液もかすむ、闇に映える赤のワンピースを来た女の人が目に入った。何してるんだ、この人……。陽の落ちた真冬の山にワンピース一枚なんて、凍え死ぬぞ。異様さが折り重なってどれが現実かわからなくなっていた。  女の人は俺の五メートルほど先の道を下っている。雪の上を浮いているみたいにサラサラと動く。 「待って」届くはずもない小さな声を吐くと、俺はその後を追った。足元の悪さと、寒さと、疲労と、さっき滑り落ちた時に足を挫いたので、焦るほどいつもの半分の早さでしか前に進めない。もどかしい。  あの人も雪から逃げているのだろうか。後ろ姿から長い髪を一本に束ねた、細身の女の人ということしかわからない。  迷いなく道を下るその人を見て、消えかけていた力が湧いてきた。あの人は町への道を知っている。背中が「ついてきなさい」と言っていた。  見失わないように必死に走った。その人は背中にも目があるように、一定の距離を保って歩き続けた。俺が息切れをして遅くなると、それだけ歩みを緩め、俺が速度を上げると、その分前へ進む。その間一度も、ちらりとも振り返ったりはしなかった。  「絶対、家に帰るんだ。そして母さんのごはんを食べる」そんなことを壮大な夢のように心に誓った。誓いの言葉を唱えると、どこかに根をはっていた生きる力が芽生えてきて、春の植物の様に雪に負けない力を俺に与えた。  雪の血の色よりも鮮やかな赤い服を見失わないように、それだけに集中してどれだけ走っただろう。  ふと、俺の道標だった赤が消えた。女の人が急なカーブを曲がったのだ。まずい、見かけてから初めて視界からいなくなってしまったその人を追って、必死で足を動かす。  じゃりじゃりっと氷を滑らす音を立てて勢いよく角をまわった時だった。見慣れた町の外灯が目の前に広がった。温かいオレンジ色。俺を信じて待っていてくれた人工の明かりに涙が滲んだ。  ……待て、あの女の人はどこだ?  目の前には一本道。右手には見晴らしの良い雪の空き地が広がり、その先に俺の町の灯がともっている。左手はとても人が登れるとは思えない急勾配の山肌で道らしい道などない。  突然、バサッと大きな音が耳元で鳴った。驚いて首を横に向けたその瞬間、大きな黒い鳥が、俺の鼻先に触れるほどに翼を広げて横切った。  ――その鳥と目が合った。  俺を雪の山から逃してくれた、あの女の人の着ていた服と同じ、鮮やかな赤い色で縁取られた目だった。
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