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第2話 まずはお相手の特定から
人々の身体に巣食う病やけがを、神の力を使って分離するために聖女が行う「離穢の儀」。その儀式の最中、聖女は目隠し布をしているのだが、先日行われた離穢の儀では不思議な突風が吹いたせいで、その目隠し布が外れてしまったという。そしてその時儀式を受けていた黒髪の男性と目が合ったルシリシアは、一目で恋に落ちてしまったそうだ。
物心つく前から実の親兄弟とも関わることなくこの離小城で「聖女」として育てられてきたルシリシア。日頃関わるのは離小城の使用人や警備の女性騎士、それと神聖院の神官たちがほとんど。年頃の異性との会話はほぼ皆無で、これまでずっと、色恋沙汰が起きるはずもない厳粛な生活を送っていた。
そんな箱入り娘が、たった数秒顔を合わせただけで恋をしてしまうなんてあり得るのだろうか。パメラはそう訝しくも思ったが、しかし恋とは不思議なもので、本人の自覚や理性を一瞬で置き去りにして、あっという間に落ちてしまうものでもある。パメラ自身は初恋すら未経験ではあるが、世間一般で若い女子が嗜む恋物語や噂話などを聞くかぎり、一瞬で恋に落ちるということは決してあり得ないことではない。
(でも、聖女様が恋をするなんて……そんな)
許されるはずがない。「聖女」は産まれた瞬間から聖女で、そして死ぬ瞬間まで「聖女」であらねばならない。日々神に祈り、神の力を使って人々を癒し、家族も友人も恋人も生涯の伴侶さえも得ることなく、世界でただ一人の聖女としてどこまでも清らかで尊い存在であらねばならない。それがこのレシクラオン神皇国におけるしきたりで、習慣で、文化で、そして法で定められた義務。ルシリシアが生涯負い続けなければならない枷なのだ。そんな境遇の聖女の恋など、叶うはずがない。
「でも……どうにもならないわね。私は聖女……終生、ウォンクゼアーザ様に祈りを捧げるだけのさだめ。結婚はもちろんのこと、誰とも愛し合ってはいけないと……そういう決まりだもの」
しかしパメラの心配をよそに、ルシリシアは自らをそう戒めた。聖女という自分の立場をよく理解している、清廉で真面目なルシリシアらしい言葉だった。
「ルシリシア様……」
この世に誕生してから十九年。うんと幼い頃から「聖女」の務めを果たしてきたルシリシアは、間違っても自分の「聖女」という立場を放棄はしなかった。自分の心がどうやら恋をしているらしいということはうっすらと理解できているようだが、しかしその恋心が許されざるものであること、どんなにその黒髪の男性のことを想ったところで何も実らないことをきちんと心得ていた。
「あの人のことを思い出してしまうけど……でも忘れないといけないわね。私はウォンクゼアーザ様に祈り、ありがたくも神の力を賜って、癒しを必要とする人々に神の力を使う……ただそのためだけに生きないといけないのだから。それ以外のことなんて……誰かを好きになる気持ちなんて、持つことさえも許されてはいない。この気持ちは……捨てないといけないのよね、きっと」
ルシリシアはそう言って寂しそうにほほ笑んだ。
聖女として生まれたいと、ルシリシア自身がそう選んだわけではないはずだ。ルシリシアという一人の人間の心が育つよりも先に、「聖女」というさだめがルシリシアをがんじがらめにしてしまった。しかしルシリシアはその鎖を決して断ち切ろうとはしない。あらゆる制約を、当然のように受け入れる。
(聖女というだけで、本当に誰とも愛し合ってはいけないの?)
レシクラオン神皇国においては、確かにそういう「決まり」になっている。だが、そもそも人の心を規則や法律で縛るのはいかがなものだろうか。果たしてそれは「正しい」ことなのだろうか。聖女は誰のことも愛してはいけない、結婚をしてはいけないという決まりの根拠はいったいどこにあるのだろうか。その制約は何のためにあるのだろうか。
パメラの胸はぎゅっと強く痛んだ。うまく表現できないが、何かをぶっ壊してやりたい気持ちに似ていた。
「ルシリシア様、その男性のことはひとまず置いておきましょう。お食事のことなんですけれど、しばらくの間、量を減らしてもらいますか? もしも食べられるようでしたらおかわりをされればいいですし。残されてしまうと、私たち侍女も料理人たちも心配しますから」
「そうね。大丈夫、と言いたいところだけれど、そうしてもらおうかしら。せっかく作ってくださっているのに、毎回残してしまうと申し訳ないもの」
「ではそうお伝えしておきますね。あ、もちろん、ルシリシア様の恋については絶対に誰にも言いません! これはルシリシア様とパメラの二人だけの秘密です!」
パメラはそう言ってにっこりと笑った。しかしその笑顔の下で、パメラは一大決心をしていたのだった。
◆◇◆◇◆
「先日の離穢の儀で不思議な風が吹いた時のことをお聞きしてもよろしいですか」
次の日、パメラは離小城に来ていた若い男性神官をつかまえてそう尋ねた。
レシクラオン神皇国は、「神皇」を頂点にして五大院と呼ばれる五つの組織で国家運営がなされている。そのひとつである「神聖院」に努める者は神官と呼ばれ、主に「聖女」に関すること――離小城で暮らす聖女の生活を整えることや、聖女が行う儀式の執行などを取り仕切る。
ルシリシアの前の先代聖女が生まれたのは実に百年以上前のことで、その先代聖女は四十歳になる前に亡くなった。以来ルシリシアが生まれるまでの六十五年近く、レシクラオン神皇国は聖女不在の時代が続いていた。聖女がいなければ神官が多くいる必要はないのでその数は減り、「神聖院の仕事と言えば神聖殿と離小城の掃除だけ」と揶揄されていた。そこへ久しぶりにルシリシアという聖女が生まれたので、神聖院は神官の数を増やした。そのため、現在の神聖院にいる神官は、年老いた上の世代か若い下の世代という構成になっている。
ルシリシアが生まれるまで細々と神聖殿と離小城の掃除ばかりをしていた上の世代は少々話しにくいが、若い神官たちは比較的フランクなので、パメラは臆さず話しかけたのだった。
「儀式中に、聖女様の目隠し布とベールが風で飛ばされてしまったと聞きました。ちょうどその時儀式を受けていた男性がいらっしゃったようなのですが、その方のお名前はわかりますか?」
「ああ、あの日の人かあ。名前はわからないけど、神皇軍の特殊作戦部隊の兵士さんらしいよ。なんかむちゃくちゃマッチョだったとかで、神官たちの間でちょっとした噂になってたよ」
「マッチョ……」
「その人がどうかした?」
「あ、いえ、そんなハプニングがあったのできちんと癒せたかどうか聖女様が気にされていらっしゃったので、私が代わりに確認できればと思いまして」
「なるほどね。まあ、苦情とかも出てないし、ちゃんと完治したんじゃないかなあ。それにしても、儀式を受ける人は何人もいるのに一人一人のことをちゃんと気にかけるなんて、さすがは聖女様だね」
「ええ、そうでしょう! 私もそう思います! 本当に聖女様はお優しい方なんです!」
マッチョな兵士の傷が治ったかどうか聖女様が気にしている、というのはパメラの即席の嘘なのだが、神官がルシリシアの心遣いに感心すると、パメラはまるで自分が褒められたかのように嬉しそうに胸を張った。そんなパメラに若い男性神官はぷっと噴き出して苦笑すると、「じゃあ失礼するよ」と言って神聖殿の方へ去っていった。
(マッチョ……)
残されたパメラは胸の中で重々しく呟いた。
優しくてきれいな聖女様が恋をした相手が、まさかマッチョな兵士だなんて。ちょっと信じがたい。いや、信じたくない。どうせならこう、どんな乙女も夢中になるような、物語の中に出てくる王子様みたいな相手でもいいじゃないか。なぜよりによって筋肉兵士。いや、顏はもしかしたらとてもイケメンなのかもしれない。でも確かルシリシアいわく髭があるそうだし、キラキラと輝くようなイケメンではない可能性の方が高い気がする。なんて残念なんだ。
(ルシリシア様は離小城という閉鎖的な環境にずっと身を置かれているから、きっと男性の好みなんてわからなくて……それで筋肉兵士に驚いただけなんだわ。うん、きっとそう……カルチャーショックだったのよ)
ルシリシアの気持ちを否定したくはないのだが、これまでずっと傍で仕え続けてきた清らかな聖女様がまさかよりにもよって髭あり筋肉兵士に恋をしたなんて、喜んで信じたくはない。何かの間違いであってほしい。ルシリシアは恋心を抱いたのではなく、その筋肉兵士があまりにも印象的すぎて忘れられないだけ。その可能性もまだあるかもしれない。それを確かめるためにも、ひとまずその筋肉兵士を特定すべく、パメラは「買い出しに行ってまいります」とそれらしい嘘をついて城下町へ向かった。
(神皇軍の……特殊作戦部隊)
五大院のひとつ、軍事院が管轄する神皇軍にはいくつかの部隊がある。最も庶民に身近なのは治安維持部隊で、そこに属する騎士や兵士が国内の都市部の治安を守っている。ほかには、主に神皇とその家族であるファンデンディオル家を護衛する近衛兵部隊というものもある。近衛兵部隊には女性もおり、その女性たちは主に離小城にて聖女の身の安全を守っている。
その神皇軍の中で、何をしているのか庶民には最もよくわからないのが特殊作戦部隊だ。ルシリシアと共に家庭教師の教育を受けて育ってきたパメラなので、そういう名前の部隊が神皇軍にあると聞いたことはあるが、彼らがどこで何をしているのかは何も知らない。
(ひとまず軍事院の庁舎に行けばいいかしら)
五大院の庁舎は城下町の中にある。聖女付き侍女という身分のパメラが軍事院の庁舎に行くのはなんとも場違いではあるが、躊躇などしていられない。
「あの、すみません」
城下町の大通りを南西に向かって歩き、ひときわ大きな建物に入ったパメラは受付の男性に声をかけた。彼は兵士の一人のようで、深緑色の軍服を着ている。
「特殊作戦部隊のある兵士さんを探しているのですけれど」
「特殊作戦部隊?」
「はい。お名前がわからなくて……先日離穢の儀を受けた方なんですけれども」
「あー。離穢の儀を受ける兵士は結構いるからなあ……それだけじゃ誰なのかはわからないなあ」
「えっと……筋肉質な男性の方で」
「筋肉質ぅ? プッ! そりゃよっぽど鍛錬をサボってる兵士じゃなきゃ、神皇軍にいる奴らはみんな筋肉質だよ。特に特殊作戦部隊なんて実力重視だから、お嬢ちゃんに比べたらみんな熊みたいな筋肉野郎だよ」
(お嬢ちゃん……)
くすくすと笑う受付の兵士に、パメラのこめかみがピクンと揺れた。
パメラは成人してからもう六年も経つ、二十二歳の立派な大人の女性だ。しかしひどく童顔なのである。大人の女性として成長した三つ年下のルシリシアと比べられて、ルシリシアの方がまるで姉のようだと言われたことは何度もある。落ち着きの度合いからいっても知的で冷静なルシリシアの方が姉のようで、常に明朗活発でよく喋るパメラはまるで手のかかる妹のようだと。
離小城に仕えている使用人からそんな風にからかわれることには慣れているが、初対面の男性からこうもあからさまにお子様扱いされるとさすがに苛立つというものだ。
「私はお嬢ちゃんではなく、聖女様にお仕えしている侍女です。儀式の途中に突風が吹くというアクシデントがあったそうで、その方が無事に完治されたかどうか、お優しい聖女様がとても心配していらっしゃって、私が代わりに確かめたいのです」
自分は大人の女性である、という矜持に恥じぬよう、パメラは苛立ちを見せることなく丁寧に事情を説明した。
「突風? ふーん。でも俺にはわからないなあ」
受付の兵士はさして興味がなさそうに相槌を打った。
離穢の儀の途中で神聖殿の中に風が吹いたことなど、これまでになかったはずだ。ましてや、聖女様が身に着けている目隠し布とベールを吹き飛ばしてしまうほどの激しい突風だなんて、珍事にもほどがある。だから神官たちや離小城の使用人たちの間ではしばらくその話題が続いていたが、軍事院の人間にしてみれば気に留めるようなことではないのだろう。
「もし、そこのお嬢さん」
「はい?」
その時、ふいに背後から話しかけられてパメラは振り向いた。そしてそこに立っていた男性に驚いた。赤い裏地のマントをまとっているので「騎士」の称号を得ている人だ。藍色の髪の毛は艶やかで、茶色い瞳の目は二重で眉毛もしゅっと形よく伸びて整えられている。鼻筋は高くて、十人が見れば十人が口をそろえて「カッコいい」と見惚れるであろう、絵に描いたようなイケメンだった。
「お話の途中に失礼。あなたの探している兵士に心当たりがあるもので」
「まあ、本当ですか!?」
パメラは大きく目を見開いて藍色の髪の騎士を見上げた。
「ええ。場所を変えてお話しさせていただいても?」
「えっと……はい、ぜひ!」
パメラは一瞬だけ悩んだ。イケメン騎士は人を騙すような人物には見えないが、しかしそう簡単に信じても大丈夫だろうかと。けれども、食欲がなくなるほどに自分の気持ちに思い悩んでいたルシリシアのことを思うと、小さなことでもいいので何かしらの情報を得たいところだった。
背の低いパメラを気遣ってゆっくりとした歩調をとってくれる藍色の髪の騎士は、軍事院の庁舎の隣にある訓練場に向かった。さすがに訓練場の建物の中には入らず、出入口から少し離れた日陰にパメラを連れていく。
「このあたりでいいかな。僕はジェレミー・リエルソン。神皇軍特殊作戦部隊第二班所属の騎士。君は聖女付きの侍女なんだって?」
「あ、はい。パメラ・カラパスと申します」
「さっき受付の兵士も言っていたと思うけど、離穢の儀を受ける兵士はまあまあ多いんだ。君が探している兵士の特徴って、何かほかにないかな」
ジェレミーと名乗った騎士は探るような視線をパメラに向けた。「心当たりがある」と言っていたわりにはヒントを要求してくるので、パメラは少し不審に思いつつも素直に答えた。
「黒髪で、瞳の色もたぶん黒です。首が太くて、たぶん体格がよくて……」
「うーん……」
「あの、失礼ですが本当にリエルソン様は心当たりがあるのでしょうか?」
ジェレミーの反応が思っていたよりもにぶかったので、パメラは不信感を隠しきれなくなった。
「あるよ。僕の上司とも言える第二班の班長がまさに黒髪、黒目で、ついでに少し前に離穢の儀を受けたばかりだ」
「そ、その方のお名前を教えてくださいませんかっ! あ、できれば人となりなんかも!」
「うーん」
ジェレミーは再び小さく唸って口を閉ざした。どうも意思疎通ができているようでできている気がしない。パメラはしこりのような違和感を覚えた。
「パメラ嬢、特殊作戦部隊がどんな部隊かは知っている?」
「い、いえ……。そういう名前の組織があるということは存じておりますが、具体的に何をなさっているかは……」
「すごく簡単に言うと、あまり表立って褒められるようなことはしていない部隊なんだよね。まあ、このレシクラオン神皇国を守るために必要なことなんだけど」
「そうなんですか」
「うん。で、何が言いたいかっていうと、そんな特殊作戦部隊に属している兵士や騎士のことを知りたいっていうのは、いったいどんな意図なのかなーと思って。そこが明確じゃないと、ほいほいと訊かれたことに答えられないんだよね。だって、たとえば君が他国のスパイで、特殊作戦部隊を利用してこの国を内側から崩そうとしているとかさ、そういう展開になっちゃうと困るんだ」
「わかりました。つまり、リエルソン様から見た私は特殊作戦部隊の内情を探ろうとしている不審人物で、とても信用に足らないと」
誰に対しても人当たりが良さそうでさわやかなイケメンの顔をしておきながら、どうやらこのジェレミーという騎士はそう簡単に他人を信じて自身の懐に招き入れることはしないようだ。それは彼自身の性格ゆえなのかそれとも職業柄なのかはわからないが、とにかくパメラが得たい情報を手に入れるためには、このジェレミーの信頼を勝ち取らないといけないらしい。
「私の意図をすべて正直にお伝えすれば、信じていただけますか」
「約束はできないよ。だってその意図が本物かどうか、いまこの場で見極めることはできないからね」
(どうすれば……)
聖女であるルシリシアが恋をした相手。その相手について何かわかるかもしれない。だが、どうすればジェレミーに信じてもらえるだろうか。それに、自分の方こそジェレミーを信じて本当のことを告げても大丈夫だろうか。聖女様の恋などという前代未聞のスキャンダルを、初対面のこの男に話しても平気だろうか。
――ビュゥッ。
(風……)
その時、少し強めの風が吹いてパメラの短い金髪を払った。そしてその瞬間、パメラははっと思いついた。
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