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紗流は膝をつき、また両腕を広げて崩れゆく街を支える。
そして、ゆっくりと一帯の破滅を元に戻していった。
もともと若林区は三次元人居住者が少数で現時点ではさらに近辺から離れているだろうが、修復には遠方から望んでのものであろう三次元化の手助けもいくらか実感でき、探偵は嬉しさを噛み締めていた。
建物や人々は、彼女たちが干渉する前の状態に。時刻も通常どおりの昼間に。暗雲を追い払い、太陽と再会する。乗り物は運転を停止させ、地面に下ろした。
とりあえず自分たちがもたらした被害だけは回復させて、力尽きた紗流は道路にうつ伏せで寝転がる。
――轟音がまだ響いていた。
一カ所、修正しきれていなかった。
彼女は顔だけ上げる。
世界樹に砕かれた浮遊島の一部。さらに雷で打たれて無数の破片となったものが、若林区に降り注いできていた。
欠片自体は人の住んでいない部分と把握できてはいたが、どのみち下界に多数の死傷者をもたらす豪雨となりうる。あの島は強制実体化で浮いたまま出現したもので、以降につくられた二次元構造物ではないため通常の物理法則による落下を三次元化で防ぐこともできない。
探偵は止めようとしたが、もはや疲労で無理だった。
しかし!
半透明の幕のようなものが柔らかく空を包みだした。それはたちまち、若林区全域をドーム状に覆う。
災害から家庭を護るためにとの名目で搭載された、マリナシリーズのバリア能力だった。
彼女たちが等間隔に並んだ区境からいっせいに二次元化を発動し、若林区全体を防衛したのだ。
「あなたたちの築く未来を、体験したくなりました」
青葉区と若林区の境。もはや麗美花たちと番長しか残っていない歩道橋の欄干上で、マリナ001は結論付けた。もちろん、同胞のシリーズたちも。
彼女の後ろで女子高生とロリキャラは微笑み合い、番長は満足げな様相で仁王立ちしていた。
島の破片はバリアの通過に耐えきれずに燃え尽き、大気圏に突入した流星のように煌きとなって、暮れだした空で潰えた。余った塵は、かつて探偵から授けられた言葉を想起して勇気を振り絞って帰ってきた巨鳥島が、人の住んでいない自分の頑丈な身体の部位でも受け止めていた。
意識を取り戻したクレオンブルクは、そんな光景を目の当たりにしてぼやく。
「……マリナシリーズのテレパシーを得た際、こちらの本音も洩れていたか。二次元にしかない絶対善に満ちた世を実現できる機会を、ふいにしおって」
やっと立ち上がった紗流が、彼の目近に歩み寄って訂正する。
「違うな。あんたは、三次元人にも腐るほどいる独善者に過ぎないよ」
「ふん、十年前の予言通りか」
鼻で笑った大賢聖は、彼女を見上げて告解した。
「……往事、わしは三次元に味方する二次元のうち、予知能力者を殺したことがあった。奴は今わの際に宣告しおったわい。〝いずれシャーロック・ホームズが復讐する〟とな。負け惜しみと解釈しておったが、和田成が探偵の助手をしていると自己紹介をしたときに怪しんだよ。故に日出子として接触し、マリナのテレパシー能力でお主の過去の記憶を一部読み、和田の話と比較して確信したのじゃ。抵抗勢力の先導者だったとな」
「おそらく予知能力者とやらは旧友だな」
探偵は教える。
「シャーロック・ホームズというのもある意味、正直な自白だ。わたしをこうしたのは、いい加減な連中でね。〝家〟の複数形で〝複家〟だとさ、シャーロックは単に女の名前っぽく〝紗流〟にしたそうだ」
「お主は現実と見分けのつかない姿形からして、実写創作からの禁じられた実体化といったところか?」
それが、クレオンブルクの推測だった。
なのに、紗流の来歴には不自然なところがない。ということは、三次元政府が係って真実を隠匿しているはずだと。不当な手段で二次元を操るための工作員とも受け取れる。彼女の握る情報を活用すれば権力者たちも脅せるし、様々な利益も得られると踏んだのが当初の計略だった。
「わたしは、黒瀬東智の少女時代だよ」
ところが、探偵は名乗った。
新ホログラフィック宇宙論の提唱者にして、虚構実在論に基づく二次元実体化装置の発明者だというのだ。
あまりに異質な回答に、老人が困惑する。
「少女? そもそも黒瀬は男じゃろう」
「男だったことにされているんだ、三次元の設定から書き換えられている。わたしはかつての黒瀬東智、本人なんだよ」
大賢聖は唖然とする。ややあって、笑いだした。
「……ふふ、ははははは! なるほど、仔細は不明だが最も憎き黒瀬東智とはな」
そして捲し立てる。
「ならば問おう、黒瀬を称する者よ。こんな惨状にしたのは貴様なのじゃぞ! なぜ我々をここに召喚し、真実を隠した? そのせいで起きた次元間対立をなんと心得る!?」
「詭弁に聞こえるだろうが」
黒瀬東智を自称する紗流は、語りだした。
「新ホログラフィック宇宙論や新虚構実在論の証明も二次元実体化装置の発明もわたしが中心だが、問題は研究チームだった。彼らは秘密裏に、三次元世界自体を理想の二次元に改変する野望を抱いていたんだ。わたしは異議を唱えたことで裏切られ、三次元の二次元化という実験台にされたんだよ。強制実体化事変が発生したのは、直後だった。わたしなしでは装置を制御しきれずに、暴走させたらしい」
「本当だとして、そやつらはどこにいる!?」
気色ばむクレオンブルクに、紗流は寂しげに付言した。
「死んだよ。強制実体化の余波でな」
「虫のいい末路じゃな」
「どう捉えられようが、お蔭でわたしも元に戻れず出自を明かせない。事象の地平面の情報を書き換えられたからには、これを話したところで黒瀬東智だった証拠が宇宙にないんだよ。正体を明かせというあんたの要求には、最初から従えなかったんだ」
大賢聖は、ごく短い沈黙をした。なにかを推考した末に、再度開口する。
「……なぜ探偵の真似事などしておる?」
「研究チームは調子に乗ったのさ」紗流は答えた。「せめてわたしを望み通りの二次元にしてやるとほざいた。だから〝名探偵〟を希望した。志半ばで研究を奪われ、延命してもわたしの虚実は闇に葬られるだろうからな。組織なぞに属さず何者にも頼らずに、二次元と三次元にとってより良い未来を導き、模索し、追及できる人物になりたかった」
「綺麗ごとを」
「かもな。一人で戦うつもりがあんたとの決戦が近づいたら虚しくなって、助手など雇ってしまったんだから」
どこか嬉しそうな彼女の反応に、齢千年の老人は心当たりがあった。倒れているかつての生徒へと眼差しを向け、口にしたのである。
「……そうか。若林区で日出子として記憶を読んだ際、やけに簡単にいったのが不可解じゃったが、好いている和田くんのそばにいたために隙があったのだな」
いきなりの指摘に、紅潮した頬で紗流は言い淀む。
「な、なにをバカな!」
「まあ、よいわ」
からかうように、クレオンブルクは笑った。もはや怒気は冷めてきたらしい。
黄昏の天上を仰ぎ、切なげに物語る。
「和田成はいい生徒じゃった。先ほど挑んできたように、決めたことには努力を惜しまん。集中している方向以外は、疎かになるがのう。……敗北したわしとは、もう無縁か」
「あんたはやり過ぎたが」気持ちを落ち着けて、探偵は提言する。「三次元人も過ちを犯した。穏便な形でだが彼らが隠蔽していた真実は公表し、対応は以降の世に任せよう」
「……」
「あんたの扱いは二次元に委ねる、自分の世界に即した裁きでも受けるといい。ただ教えて欲しいことがある。こんな規模の謀略だ、もっと裏があるはずだろう?」
「ふふっ、期待には沿えんな」
きっぱりと、クレオンブルクは断った。
「三次元同士でさえ認め合えずに幾多の争乱を繰り返してきた貴様らが、二次元と友好など結べるものか。あの世から見物させてもらおうぞ」
嫌な予感が紗流を彼のもとへと駆け寄らせた。
「よせ! クレオンブルク!!」
彼女が引き止めようとしたときには、手遅れだった。
不老不死を実現しているはずの老いた賢者は自らの〝死〟の概念を、〝夢想現前〟によって現実としたのだ。
彼の姿が光の粒子となって四散。埃に混じって空気に溶けた。
老体があった場所に滑り込んだ紗流は、もう何者にも接触することはできなかった。
彼女は悲痛な表情で、和平公園の方を望んだ。
二次元と三次元の握手は、固く交わされたままだった。
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