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「ほら。ゆうくん。ちゃんと起きて。ご飯食べなさい」
「んーねむいけどね」
半分眠ったままの悠人を私の母が穏やかに見守っている。鼻先まで卵を運ぶとくんくんと匂いを嗅ぎ、小さな口を開けた。
「彩理さんは今年は帰ってこないの?」
母が言いにくそうにたずねる。
「うん。お盆も仕事だから」
「そう」と母は肩を落とし、悠人の側に座る。口の周りについたご飯を拭き、ついでにこびりついた目やにも拭いた。
「じゃあ、いってきまーす」
先ほどとは打って変わって、悠人が元気いっぱいに走り出す。実家から少し歩くとメタセコイアの森がある。その向こうに海があるのだ。悠人は、この夏休みに海を見ることを何より楽しみにしていた。
「透。あんた大丈夫?」
「なにが?」
「顔色悪いよ。それにあの海は……」
母は昔から言いにくそうにものを言う癖がある。
「いつの話を気にしてるんだよ。もう俺三十だぜ」
「そうね。もうそんな歳ね」
高校を卒業してから十二年ぶりの帰郷だ。
きっかけは悠人が海を見たい。パパの育った家が見てみたいと言ったことからだった。
正直この街のことは思い出さないようにしていた。
忘れようと上京した。
年老いた母を一人残して。
歳月が、おりのように積み重なって感情が埋もれている。一歩進むごとに剥がれ落ちて心が見え隠れする。
「パパ。手の汗すごいよー」
「ごめん。ごめん」
メタセコイアの森が見えた。
入り口には古びた図書館がある。アスファルトで作られた現代的な建物だったがつたに覆われ、様相が変わっていた。
「あの建物なーに?」
「あれは図書館だよ」
「へー。絵本もあるー?」
「うーん。東京みたいに大きな図書館じゃないからね」
「へー。パパも子どものとき、行ってた?」
「うん。よく行ってたよ」
「そうなんだ。行ってみたい?」
大きな瞳で見あげる様が愛らしい。
どこか私に気を使ってくれているようで胸が苦しくなる。我が子ながら心根が優しいのだ。
「いや、いい。海この先だよ」
「うん。あれ、どーしたの?」
おもわず立ち止まった。
かつての私たちに似た高校生カップルがいたからだ。
幻影を眺めた。
あの頃、あの夏休み。
私は、あるクラスメイトとよくこのメタセコイアの図書館に来ていた。
高校二年生の夏休みだった。
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