夫の左腕

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夫の左腕

*** 「高梨君!」  夜の営業が終わりに近づいた頃、目の前がぐにゃりと歪んだ。僕の手から幾重にも重なった大皿が落ち、バリン! と激しく割れた音と、真鍋さんの声が同時に鼓膜を震わせる。  僕はそのまま気を失ってしまったらしく、次に瞼を開いたときには更衣室の小さなソファの上で、真鍋さんのブルゾンをかぶされて横になっていた。 「気がついたか。やっぱりまだ体調悪かったみたいだな」 「すみません! お店は!?」  壁掛け時計を見ると、二十三時半を過ぎていた。閉店から一時間が経っている。 「大丈夫大丈夫。店長も心配してたぞ。今日は帰らないと駄目だから先に上がるってさ。鍵預かってるから、高梨君の旦那さんが迎えに来たら、俺も出るわ」 「えっ!? 理人が来るんですか?」  慌てて上半身を起こすと、目の前がくらくらとして体が傾き、床側に落ちそうになった。   「っおいおい、無理すんなって」  ソファの前の丸椅子に座っていた真鍋さんが、すぐに立って寄り添ってくれる。 「店長が店電から電話したんだよ。旦那さん、最初は連絡つかなくて留守電に入れてたら、さっき折り返してきて、すぐに行くって……」 「や……困ります! 自分で帰れます!」  あの彼が言っていたんだ。「今日も理人に会うんだ」と。連絡がつかなかったのは彼と過ごしていたからだろう。  今の今まで彼と愛し合っていたかもしれない理人に会いたくない。彼の匂いが纏わりついた理人の隣を歩きたくない。 「真鍋さんお願い、僕を連れ出して! 今日は真鍋さんの家に泊まらせてもらえませんか? 理人とはもう一緒にいられない!」  運命の彼にああまで言われて、もう別れを引き伸ばすことはできない。なにも準備ができていなくても、もう離れるしかない。 「高梨君……!」  大きな胸に体当たりすると、力任せにすがりついた反動だろうか、真鍋さんは僕に腕を回し、抱き止めるようにした。  と、同時に荒々しくドアが開く。 「天音……!」 「理人!」  大きな音に驚き振り向くと、険しい表情の理人が立っていた。
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