「ごめんなさい」一年越しにかかる最愛の人からの電話

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 窓辺に立った俺は高層マンション十階から地上を見下ろす。  地上には高層ビルが建ち並び、無数の自動車やバイクが街を縦断する車道を走っている。その遥か上にある空は海のように青く、ふんわりとした雲が空をゆったりと泳いでいた。東から空を昇ってきた太陽は眩い輝きの影響で白色に見えた。  一年前まで何度も見ても地上の光景は絶景に思えた。今見えている景色も一年前とそれほど変わらない。なのに全く心に響いてこない。  景色を見るのに飽きた俺は窓辺から離れ部屋を歩き出す。  部屋の天井に取り付けられた電気は灯っていない。窓から温もりのある太陽の光が差し込み明かりは確保されている。けれども部屋は薄暗く虚しい雰囲気が漂っていた。  喉が渇いた俺はキッチンに赴き冷蔵庫を開けた。冷蔵庫から流れる冷気が腕に当たり寒さを感じた。水が入ったペットボトルを取り出すと冷蔵庫を閉めた。カウンターにペットボトルを置く。ドスッとペットボトルがカウンターを響かせる。  俺は食器棚へと歩き戸を開く。中から透明のガラスコップを手に取り戸を閉めた。  カウンターに戻るとペットボトルの蓋を開ける。口をコップの付近に近づけ水を注ぐ。コップの半分程度まで水が溜まるとペットボトルをコップから離す。蓋を締めペットボトルを冷蔵庫へと直す。  コップを片手で握ると冷蔵庫よりも冷えた感触が手に染み込んだ。コップを口に当てるとそのまま一気に水を飲み干した。喉は冷えた水で十分に潤い渇きは癒えた。  コップをシンクに置く。すると僅かながらコップでシンクを鳴らしてしまう。コップを手放した俺は眉を顰めながらシンクを見詰めた。  物は大切に扱うべき。それを理解はしている。ただ今日の俺はそこまで気が回らず、あらゆる動作が雑になっていた。  シンクから目を離した俺は窓側にあるソファーに向かう。ソファーの前に着くと腰を下ろした。浅く尻がソファーに沈む。次に背を背もたれの方に傾けた。背と背もたれが触れ合う。背もたれは柔らかく背中側に溜まった疲れを全て吸収しそうな心地よさを感じた。  俺はズボンのポケットからスマホを取り出す。電源を入れるとパスワードの入力画面が現れる。親指で手慣れた様子でパスワードを入力する。規律正しくアプリアイコンが並んだ画面が表示されると写真フォルダを開いた。いくつもの小さな写真が並ぶ中、俺は一枚の写真を指で素早く押し拡大表示させる。  近所のコンビニの前で撮られた写真。被写体には笑う俺とかつての彼女、古武惟浬那(こたけいりな)古武惟浬那がいた。惟浬那も笑っているがその笑顔はどこかぎこちない。  惟浬那は一年前、電話で「ごめんなさい」と言い残して失踪した。この写真は失踪前日に撮られた物だった。だから笑みがぎこちないのだろう。  惟浬那とは大学二年のときから七年も交際していた。けれど詳しい事情を告げられないまま彼女は消えてしまった。あれから何度も行方を探した。けど実家の居場所すら把握してため捜索は難航した。結局一年経てど手がかりすら発見できなかった。  惟浬那との最後の写真を眺めていると目が急激に熱くなってくる。このあと起きる現象を察知できたが今の俺には止めることはできない。やがて目から熱を帯びた雫が一粒、頬に流れてきた。ゆったりと流れる雫を俺は指で拭き取る。  指の方を俺は目した。拭き取った雫が力なく下へと落下していく。ズボンに雫が着地すると目からいくつもの新たな雫が溢れてきた。  声に出して一年経っても愛した人が見つからない悲しみを吐きたかった。だけど今の俺にはその余力すらない。頬を伝った雫が何粒もズボンへと降り注ぐ。ズボンは湿り、その下にある皮膚にまで感触が貫通する。  大学卒業大企業に入社した。収入も同年代よりも圧倒的に高く、二十代中盤で既に高層マンションで暮らしている。なのに俺の心は空っぽだ。ライトで照らしてもごみ一つすら見つからない。一年前にハンマーで砕かれて何箇所にも大きな穴が空いてしまった。そこから人生で蓄積していたモノは全て落ち去ってしまった。  このままずっと悲しみに浸かりながら仕事をして最後は死んでいく。そんな人生を想像していると寂しさが心から手にまで広がっていく。スマホを握る指は寂しさから逃れるように力が強まる。スマホの角張った部分が指の関節に食い込み圧迫するような痛みを覚える。それでも俺はスマホをきつく握り締めた。物理的にはあり得ないがこのまま握り続ければスマホを砕けてしまう幻想してしまう。  突如スマホが鳴った。電話の着信音だ。手の中でスマホのバイブレーションが何度も震え、その振動が指に伝わる。指の力を緩め俺はスマホの画面を直視する。発信者名には「古武惟浬那」と表示されていた。  音が鳴りスマホが震え続ける中、俺は発信者名を瞬きせず凝視し続けた。惟浬那に相手に電話は今まで何度かかけた。けれどその全てにおいて惟浬那が出ることはなかった。  だから俺は電話の相手が惟浬那だとは信じられなかった。俺は発信者名を見間違えていると思い一度瞬きをした。けど目を開いても発信者名が変わることはなかった。  俺はとりあえず電話に出ることを決めた。画面内の電話マークのボタンを押しスマホを耳に当てた。 「やっと出てくれた」  第一声が耳に入る。安堵したかのような声は聞き慣れたものだった。一年振りに惟浬那と繋がった事実に涙の勢いは増す。涙が続々と頬を流れ、流れた痕跡をつける。そしてズボンへと零れ落ちていく。  何か話されければ。そう思い気の利いた言葉を考えるが頭の中まで涙で溢れ言葉を捻り出せない。俺はとりあえず場当たり的な言葉を返すことにした。 「惟浬那元気だったか」 「うん元気だったよ。ごめんね一年も電話できなくて」 「そんなことはないよ。こうやって電話してくれただけで嬉しい」 「今日は電話したのはねちゃんと謝りたかったのと無言で離れた経緯を伝えたかったから」 「それは俺も知りたかった。一体あの日に何があったんだ」  ずっと知りたかった答えが聞ける。そう考えるだけで自然と涙が止まっていた。 「失踪する二週間前にお父さんが倒れたの。それでわたしはお父さんの会社を継ぐために地元に帰ることにしたの」  惟浬那の親に関しては初めて聞いたがまさか父親が倒れていたとは想定外だった。けれど惟浬那が会社を継ぐために失踪したと知って俺は腑に落ちない点があった。 「それなら何で俺に頼らなかったんだ。経営のことは分からないが業務の手伝いぐらいはできたのに」  入社倍率が高い大企業の試験を突破し、その後も難なく仕事をこなしてきた。なのに頼ってもらえなかった。その事実に惟浬那と長年築いてきた関係などやはり些細なものだったと邪推してしまう。  けど胸の奥ではその推測は違うと必死に否定している自分もいた。 「凪登(なぎと)くんは大企業に入って将来も安泰だったから頼めなかったの。わたしの会社小さくて借金抱えているから、そんな会社を凪登くんには手伝わせることは出来ない」  惟浬那から明かされた事情に俺は沈黙してしまう。惟浬那の気遣いに俺は納得しつつも余計に恋人である俺を頼ってほしかったという無念さが湧いた。  だからこそ俺は今度こそ惟浬那の力になりたい強く望んでしまう。 「惟浬那、今からでも遅くない。俺に手伝わせてくれないか。俺には惟浬那が苦しんでほしくない」 「凪登くんはやっぱりそう言うよね。けどもう大丈夫だよ。またわたし頑張れる気がしてきたから。だから凪登くんもわたしのこと忘れて頑張ってね」 「何言ってるんだ。俺は君が――」  電話が切れた音が諦めろと告げるかのようにスマホから流れてくる。力になれないという無力感が体中から力を奪っていく。スマホを握っていた手も腕ごと力が入らなくなり、垂れるようにソファーに衝突する。パンという弾力のある音が耳に入る。一度手は跳ね、そのままソファーに着地した。  指が弱々しく広がり手からスマホが抜ける。俺は頭を背もたれに預けると天井を仰いだ。  惟浬那がただ謝るだけで電話をしてきたはずがない。借金の話から相当経営を苦しいはずだ。だから俺を頼ろうとして電話をしてきた。けど俺に会社経営を手伝わせることに話している途中で罪悪感が湧いて無理やり電話を切ったのだろう。  俺は目でソファーを見回し、スマホを見つける。再びスマホを握ると電話番号で知っている者同士で連絡できるメッセージアプリを開いた。そこで俺は惟浬那宛にメッセージを打った。 『俺は今の生活に未練はない。だから仕事を手伝って欲しいなら一ヶ月以内連絡してほしい』  メッセージは一ヶ月以内に返ってこない可能性が高い。そのときはもう惟浬那との思い出は捨てて新たな人生を歩もうと決意した。けどもし手伝ってほしいとの要望があれば俺は迷わず惟浬那の元へ向かおう。  俺はスマホをズボンのポケットに収めると食べていなかった昼食を用意すべくキッチンへと歩みを進めた。
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