第一章【太陽編】

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【犬と猫】  ◆  中庭の名も無き木の下で出会って以来、リオンとクラウディアの関係はまるで月が満ちていくようにゆっくりと変わっていった。  最初こそ負け犬同士の傷の舐め合いに似た感情だったかもしれないが、それは次第に形を変えていく。  ・  ・  ・ 「クラウ、サルーム王国の"涙の日"っていうのはどれくらい続くものなんだい?……え?そんなに?その間、皆家から出られないとなると大変だな」 「私も話に聞いただけだから。涙は侵略されゆくサルーム王国を儚んだ雨の精霊が流したものだとされているわ。……私ね、いつかはサルーム王国へ行ってみたいと思うの。母の故郷だから」  ある時はこんな話をし…… 「ふうむ。精霊信仰? ありとあらゆるものに精霊が宿る、か。だからあらゆるものを尊重する……そういう考え方は嫌いじゃないな。でもその、なんていうのか、命の精霊とか死の精霊の話は少し怖いよ。死んだ者が生き返るだなんて……どういう理屈なんだい?」 「私たちの体には命の精霊と死の精霊が同じだけの力で共存しているの。"その時"が来ると、命の精霊は少しずつ体から抜け出てしまう。その分、死の精霊の力が強まるわけね。でも命の精霊が完全に抜け出してしまう前に、土に埋めて大地の精霊に助力を乞うことで、抜け出ていく命の精霊に活力を与えることができる──そうすれば、人は死なない。……まあ私も信じているわけではないけれど、そういうお話にはいろいろな教訓があるから面白いわよ」  またある時はこんな話もした。 「精霊はね、恩恵を与えるだけじゃなくって悪戯をするときもあるらしいの。勝手に扉を開けたり、窓を開けたり。大した悪戯じゃないけれどね。自分はここにいる、って人間に伝えている……って話よ」  母親の故郷だけあってか、クラウディアはサルーム王国の事を随分と調べたようだった。  ・  ・  ・  二人の距離感が近づいていっているのは、話しぶりを見ても明らかだった。  とはいえ、リオンは婚約者がいる身。男女の関係云々の話にはならない。  そんな二人に周囲の貴族たちも特に干渉しなかった。  リオンにせよクラウディアにせよ、貴族たちにとっては無価値で無意味でいないも同然の存在だったからである。  ただ一人、リオンの婚約者イザベラを除いては。  ◆ 「リオン様、最近ペットを飼いだしたそうね。雌猫……だったかしら?」  ある日、いつものようにリオンをサロンに呼びつけたイザベラはおもむろにそんなことを言った。  リオンにとっては身に覚えのないことである。 「ペットとは?雌の猫だって?僕はそんなもの飼った覚えはないが……」  リオンの言葉にイザベラは嘲笑を以て答えた。 「あら、飼っているじゃないの。クラウディア、とかいう名前の雌猫を。一応一線を越えてはいないみたいだけれど、こういうのって相手がどう思うかが大事なのよね。つまり、わたくしの気持ちがってことだけれど。ねえリオン様、今私がどう思っているかわかるかしら。分かったら、私のお父様がどう思うかも想像してみてね」 「イザベラ、誤解がある。僕はクラウディアと何かあるわけではないよ。単に同じ学園に通う生徒同士というだけだ。もちろん打算もあるさ。彼女は商家の娘だろう?僕もいずれは兄上を盛り立てる立場として、公務を務める事になるはずだ。だから商家とのつながりは……」  リオンがここまで言ったところで、イザベラは人差し指を口元へ持っていった。  これは単純に「黙れ」という意味である。  イザベラは不快だった。  婚約者が他の女にうつつを抜かしているからではなく、飼い犬が他の飼い主に尻尾を振っているからだ。  ちなみに他の多くの貴族とは違って、イザベラはというか、フェルナン公爵家はリオンに価値を見出している。  無能であっても王族なのだ。  尊き血はいくらでも利用方法がある。  例えば、今後エドワードと現王の弟に何かのっぴきならないことがあった場合、リオンは非常に役に立つ。  なぜなら次に王位につくのはリオンで、そのリオンの舵をとるのはイザベラ、ひいてはフェルナン公爵家であるからだ。 「リオン様、いえ、リオン。あなた、自分の立場を分かっていて? あなたは無能よ。それでも第二王子なの。高い王位継承権がある。つまり、いろいろな人から──王位につきたいと思っている人たちからすれば邪魔者なの。無能な邪魔者がいればどうすると思う?……あなたはフェルナン公爵に生かされている事をよくよく自覚することね。分かったらあの雌猫を遠ざけなさい……いいえ、やっぱり良いわ。こちらでやっておくから」  ──こちらでやっておく?  ──何を? 「やっておくっていうのは、何をかなイザベラ。遠ざけるのは分かった。君がそう考えているなら……そうするよ」 「いいえ、あなたは分かっていないわ。女だからね、わかるのよ。あなたはあの雌猫にたぶらかされている。遠ざけたとしても、また雌猫がすり寄ってくればあなたは受け入れてしまうでしょうね。それに、今後同じことが起きないとも限らない。だからね、あなたが自分の立場を忘れたことで一体何が起こるのか……そのあたりをしっかり理解しておいてもらおうと思ってるの」 「……何を、するつもりだイザベラ。聞かせてくれ」  リオンの問いに、イザベラは薄く笑うだけであった。  にじり寄ろうとするリオン。  それを見たイザベラは、形の良い顎をクイとリオンに向ける。  すると、取り巻きの一人の大柄な青年が凶猛な気配を発しながらズイと前に出てきた。  ◆  カッと頭に血が昇るリオンだったが、頭の中に冷たい声が響く。  ──今ここで、この男を殴り倒せたとしても。それでイザベラが僕に本当のことを話すだろうか。それに取り巻きはこの男だけじゃない  リオンは一歩二歩と後ずさり、あえて卑屈な笑みを浮かべることをして見せた。 「す、すまない、イザベラ。僕は自分の立場を忘れていたみたいだ」  そう言って謝罪すると、イザベラは満足そうに頷いて言った。 「分かればいいの。あなたがわかってくれるなら、わたくしも面倒な手配をしなくて済むわ。さあ、もう行ってちょうだい。この後友人が来るから。あなたはその子を知らないはずだから、肩身が狭い思いをしてしまうかもしれないしね」  イザベラの笑みは優しかった。  リオンはサロンを出て行った……ふりをして、扉に耳をつけた。音がでないように、ひっそりと。  よくも悪くも、これまでイザベラと接してきたリオンである。イザベラが浮かべた笑みの奥に、苛烈なまでの嗜虐的な感情が込められていることに、なんとなく気づいてしまった。  気づいた以上、リオンにイザベラを信じることはできなかった。 「あの犬は無能ね。全部なっていないわ。あんな風にみじめに笑っていても、心の奥では私に対して歯をむき出しにしているわ。やっぱりあの雌猫が悪さをしているのかしらね。ところで……ねえ、ホドリック。ここ最近、王都の治安が少し不安だと思わない? 私たちが帰るくらいの時間に、風体の良くない男たちが歩いているのを見かけた時もあるわ」 「……は。そうですね、イザベラ様。ここ最近の王都の治安は少々不安を覚えます。」  ホドリック伯爵令息はイザベラの子飼いである。  イザベラはリオンの二心を見通していたのだ。  しかし、見通していないこともある。  例えば、イザベラはリオンを無能だと言ったが、彼らの会話が何を意味するのか全く分からないほどには無能ではない事などだ。
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